★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

夜に入りて

2021-08-18 23:03:28 | 文学


「夜に入りて物のはえなし」といふ人、いと口惜し。万のものの綺羅・飾り・色ふしも、夜のみこそめでたけれ。昼は、ことそぎ、およすげたる姿にてもありなん。夜は、きららかに、はなやかなる装束、いとよし。人の気色も、夜のほかげぞ、よきはよく、もの言ひたる声も、暗くて聞きたる、用意ある、心にくし。匂ひも、ものの音も、ただ夜ぞ、ひときはめでたき。さしてことなる事なき夜、うち更けて参れる人の、清げなるさましたる、いとよし。若きどち、心とどめて見る人は、時をも分かぬものなれば、ことに、うち解けぬべき折節ぞ、褻・晴なく、ひきつくろはまほしき。よき男の日暮れてゆするし、女も、夜更くる程にすべりつつ、鏡とりて、顔などつくろひて出づるこそをかしけれ。

「夜は、きららかに、はなやかなる装束、いとよし」と言い切っているのが面白いが、確かにそうである。もっともこれは服装に限ったことではなく、思考もそうだ。大げさになるというより装飾が多く、そのために我々は自分の思考に目くらましを食っている。

派手な蒔絵などを施したピカピカ光る蝋塗りの手箱とか、文台とか、棚とかを見ると、いかにもケバケバしくて落ち着きがなく、俗悪にさえ思えることがあるけれども、もしそれらの器物を取り囲む空白を真っ黒な闇で塗り潰し、太陽や電燈の光線に代えるに一点の燈明か蝋燭のあかりにして見給え、忽ちそのケバケバしいものが底深く沈んで、渋い、重々しいものになるであろう。古えの工藝家がそれらの器に漆を塗り、蒔絵を画く時は、必ずそう云う暗い部屋を頭に置き、乏しい光りの中における効果を狙ったのに違いなく、金色を贅沢に使ったりしたのも、それが闇に浮かび出る工合や、燈火を反射する加減を考慮したものと察せられる。

――「陰影礼讃」


かく言う谷崎は、自分の文章も蒔絵のつもりでいたのかもしれない。したがって、谷崎の文章は、近代の真っ昼間的な環境の中では、けばけばしさとして輝きを失うところがあるのであろうか?そうでもないであろう。わたくしの単なる感想であるが、谷崎というのはちょっと自分の環境をケナしすぎていたところがあると思うのである。しかし無理もないので、そうでもしなければ芥川龍之介のようなかんじになりかねない。芥川や谷崎は、次のように書くことができない。「陰影礼讃」で触れられている漱石の羊羹の件である。

「ありがとう」またありがとうが出た。菓子皿のなかを見ると、立派な羊羹が並んでいる。余はすべての菓子のうちでもっとも羊羹が好だ。別段食いたくはないが、あの肌合が滑らかに、緻密に、しかも半透明に光線を受ける具合は、どう見ても一個の美術品だ。ことに青味を帯びた煉上げ方は、玉と蝋石の雑種のようで、はなはだ見て心持ちがいい。のみならず青磁の皿に盛られた青い煉羊羹は、青磁のなかから今生れたようにつやつやして、思わず手を出して撫でて見たくなる。西洋の菓子で、これほど快感を与えるものは一つもない。クリームの色はちょっと柔かだが、少し重苦しい。ジェリは、一目宝石のように見えるが、ぶるぶる顫えて、羊羹ほどの重味がない。白砂糖と牛乳で五重の塔を作るに至っては、言語道断の沙汰である。

――「草枕」


漱石の文章は、とても昼間的だとわたくしは思う。夢を見る場合でも、つねに彼の場合は白昼夢である。