★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

細脛の話

2021-08-14 23:39:32 | 文学


さはいへど、上戸はをかしく、罪ゆるさるる者なり。酔ひ草臥れて朝寝したる所を、主の引き開けたるに、まどひて、ほれたる顔ながら、細き髻さし出し、物も着あへず抱き持ち、ひきしろひて逃ぐる、かいとり姿の後手、毛生ひたる細脛のほど、をかしく、つきづきし。

下品な酒飲みは地獄行きだとかこの前辺りでは書いてあったのに、こんなことを書いている兼好法師である。結局、これは右顧左眄の一種であり、こういうのが日本ではむかしから深い見解とされているのであった。それはいいかもしれないが、これとくらべておなじ酒宴でも「サチュリコン」のそれでは人間の把握の多様さと壮大さがまるで違う。「みんな違ってみんないい」と思っている俺はいい、というのが我々であり、違いをしつこく書き記し書き手が自分のことなど本質的に見失うのが「サチュリコン」の世界である。

そういえば、サチュリコンには、天井から土産物などが降ってくる場面があったように思うが、日本でも、「幸福なんて言うやつは 空から降っちゃこないのさ」(真実一路のマーチ)とかいっているもんだから、実際餅や何やらが降ってくると我を忘れてしまうわけである。ここで、はっきり餅と言わずに幸福とかいっているところが欺瞞的であって、勢い余って何だかモノの名前を「タンバリンタンバリン」と歌うだけである。われわれのえいじゃないか的な感性はモノへの欲望とかなり親和性が高い。

杖無しには一二町の道も骨が折れる風であつたが、自分等の眼には、一つは老衰も手傳つてゐるのだらうとも、思はれた。自分も時々鎌倉から出て來て、二三度も一緒に風呂に行つたことがあるが、父はいつもそれを非常に億劫がつた。「脚に力が無いので、身體が浮くやうで氣持がわるい」と、父は子供のやうに浴槽の縁に掴まりながら、頼りなげな表情をした。流し場を歩くのを危ぶながつて、私に腕を支へられながら、引きずられるやうにして、やうやくその萎びた細脛を運ぶことが出來た。

――葛西善蔵「蠢く者」


酔っ払いの細脛をわらうのではなく、もっと人間の姿を現す細脛が見出されるのは近代になってからのように思われる。酔っ払っていてもいなくても、普段から批判するほどの批判をせず、褒め殺すまでは褒めもせず、滑稽な細脛を笑うだけのような人間観察は、本当の悲惨さから逃げ出すような気がしてならない。