★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

過剰さと無常観

2021-08-09 23:24:44 | 文学
正・住・異・滅の移り変はる、まことの大事は、猛き河のみなぎり流るるがごとし。しばしも滞らず、ただちに行ひゆくものなり。されば、真俗につけて、かならず果たし遂げんと思はんことは、機嫌を言ふべからず。とかくのもよひなく、足を踏みとどむまじきなり。春暮れて後に夏になり、夏果てて秋の来るにはあらず。春はやがて夏の気もよほし、夏よりすでに秋は通ひ、秋はすなはち寒くなり、十月は小春の天気、草も青くなり、梅もつぼみぬ。木の葉の落つるも、まづ落ちて芽ぐむにはあらず。下よりきざしつはるに堪へずして落つるなり。迎ふる気、下に設けたるゆゑに、待ち取るついで甚だ速し。生・老・病・死の移り来たること、またこれに過ぎたり。四季はなほ定まれるついであり。死期はついでを待たず。死は前よりしも来たらず、かねて後ろに迫れり。人皆死あることを知りて、待つこと、しかも急ならざるに、おぼえずして来たる。沖の干潟遥かなれども、磯より潮の満つるがごとし。

「木の葉の落つるも、まづ落ちて芽ぐむにはあらず。下よりきざしつはるに堪へずして落つるなり」――であるとすると、死は何かに押されて生じることになり、これを推し進めれば、もうフロイトの死の欲動みたいなところにはあと一歩のような気がするのであるが、兼好法師がそうならない方が注目すべきことである。やはり無常観みたいなものが邪魔しているのではないだろうか。内部の生に押し出されて現れてしまう死はまるでゲーテの植物みたいでもあるが、彼が想起しているのは、「潮が満つる」風景である。これは、干潟にもましてなんだか豊かでないような気がするのはわたくしだけではないであろう。我々の世界には、対象としてじっくり観察するにはモノが多すぎる。この過剰さはなんとなく無常観とつながっている。

庭の手入れをしてると、台風の後に植物や動物が動揺しながら秩序を回復しようとする動きが感じられるようになる。今日なんかもそうであった。むろん、わたくしも秩序回復に参画するのだ。いつもはいないアブラゼミも逃げていった。ああ人間の心はかくも周囲と密通して気持ち悪くできている。雨の後は雑草が抜いてくれと言っているので、ざっぽざっぽと抜いて差し上げる。地面にのされたひまわりが、花だけぐいっと上に向けだしてくる。――こんなときに思うのは、我々のまわりには実に様々な作用に満ちていて、その数が多すぎるのである。多神教以前にモノが多い。



カエルも葉とともに色づいている。日本にマニアが多いのは、モノを限ることによって自分の輪郭を創ろうとするからである。写真機の登場は本当に大きい出来事で、そのフレーム機能を万人に与えた。