万の事、外に向きて求むべからず。たゞ、こゝもとを正しくすべし。清献公が言葉に、「好事を行じて、前程を問ふことなかれ」と言へり。世を保たん道も、かくや侍らん。内を慎まず、軽く、ほしきまゝにして、濫りなれば、遠き国必ず叛く時、初めて謀を求む。「風に当り、湿に臥して、病を神霊に訴ふるは、愚かなる人なり」と医書に言へるが如し。目の前なる人の愁を止め、恵みを施し、道を正しくせば、その化遠く流れん事を知らざるなり。禹の行きて三苗を征せしも、師を班して徳を敷くには及かざりき。
ほんとうは、なぜ身近の人の心配を取り除くような生き方が、勢い遠いところまで作用するのか、具体的に説明した方がよいのだ。経験則では確かにそうでも、いまや自分だけが逃げ切ろうとしている人間がかくも溢れている情況では、正しいことを行うとよいことがある証拠が必要なのである。――まあ、そう考えること自体が倫理的ではないのだが。
民主的な制度の場合は、自分の行いが政治に遠からず模倣される設計が少なくとも理念としてなされているはず、という教育が行われる。これを、多数決の効果として教えている教師が問題あることはたしかだが、そうはいっても、その模倣の過程にメディア的な変換装置が巨大に立ちはだかっているのが現代である。ここに神話的なものを見出すのが、二十世紀の革命家達であった。しかし、もはやメディアがガリ版によるビラである事を越えて機械的な自律機能を備え始めると、もはや事態はいまのようになってしまう。我々はつい、倫理を機構に備えることばかり考えるようになるのである。
しかし、この自律機能というのは、我々のなかにもあって、――たとえば、思春期がそうである。メディアに倫理を求めることは、思春期に倫理を求めることに近い。小学校の教育と中学校の教育を比べてみると、小学校の教育は倫理的なことを教え込む技術が発達しやすいが、中学校は非常に難しいことになっていて、制圧だけでせいいっぱい、小学校レベルの道徳観念をもう一度繰り返すことになりかねない。われわれの文化が遊戯会じみたものになっているのには中学校以降の倫理教育に失敗していることに関係がある。四書五経をやめてから代わりを発明できてないのだ。一応、近代文学にそれが期待されたこともあったが、失敗した、と捉えられた。しかし、考えてみたら、四書五経が成立するためにいったいどのくらい時間がかかったというのだ。近代文学が人間の倫理に達するのには、まだまだ時間がたりないのだ。そういえば、「エヴァンゲリオン」というアニメーションが30年近くもかかって思春期における家族問題を解こうとしていたのも、その困難の現れであった。それを手塚マンガみたいに作者の思想=道徳として語れなかったのは、そのアニメーション自体が社会的な持ち物と化したかのような幻想が行き渡っているからである。
作品は作者に属するに決まっており、それに気付く能力がある作者は自分の物語として作品を終了させられる。それに耐えられない凡人のかずかすは、自らを所有できないために、「私がない」状態――無常観もどきに心を飛ばす。これでは兼好法師に逆戻りだし、そもそもその心情に見合った「私がない」体制さえ欲望しかねないのである。
子張が先師にたずねていった。――
「どんな心がけであれば政治の任にあたることが出来ましょうか。」
先師がこたえられた。――
「五つの美を尊んで四つの悪をしりぞけることが出来たら、政治の任にあたることが出来るであろう。」
――下村湖人「現代語論語」
単純なところから細かい倫理に行こうとするやりかたが案外われわれに合っているのかも知れないのは、我々の形式論理的たこつぼ的傾向からしてありうることだ。聖書のように、物語に頼ったやり方は我々には向いていないのかも知れない。やれ読解力だとかいって、劣った知性が威張り出すのが関の山だ。それよりは、まず規則のように意味不明な(読解不能な難解さにはみえない――)命題が降ってくる方がいいのかも知れないのである。