★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

老い2

2021-08-13 23:14:51 | 文学


老いぬる人は、精神おとろえ、淡く疎かにして、感じ動く所なし。心おのづから静かなれば、無益のわざをなさず、身を助けて愁なく、人の煩ひなからん事を思ふ。老いて智の若き時にまされる事、若くして、かたちの老いたるにまされるが如し。

なんかうまいことをいったように思える箇所だが、若い者の容姿が崩れるように、老人の智も崩れるのだ。ここまでいわないと逆説の意味がないとわたくしは思うものだ。

嘗て拵えてやると約束をしたプールの工事がもうその頃始まって、庭の芝生が掘り返されていた。
「拵えたって無駄だわよ、どうせ夏になればお爺ちゃんは日中に戸外へなんぞ出られやしないわ、無駄な費用だから止めた方がいゝわ」
と、颯子が云うと、浄吉が云った。
「約束通りプールの工事が始まっているのを、眺めるだけでも親父の頭にはいろいろな空想が浮ぶんだよ。子供達も楽しみにしているしね」


谷崎は「瘋癲老人日記」をこのように終えている。この作品の内容は忘れてしまったが、わたくしは兼好法師が、この「空想」をいかに無視し得たのかが興味深いことだと思う。わたくしは、様々な老人達の文章などをよむと、かれらが自分の言葉が誰に届いているのか気にしているうちに、空想をなくしてゆくような気がしてならない。判断を過たないのはそのせいもあるにちがいない。そのかわり、野蛮な生産性を失ってしまうのである。若い者と同じく、言葉がコミュニケーションの道具と化すときが一番危ないとわたくしは思う。