人間の営みあへるわざを見るに、春の日に雪仏を作りて、そのために金銀・珠玉の飾りを営み、堂を建てんとするに似たり。その構へを待ちて、よく安置してんや。人の命ありと見るほども、下より消ゆること、雪のごとくなるうちに、営み待つ事甚だ多し。
果たして雪だるまは地熱でとけるのであろうか。そうはみえず、下から溶けるというよりも全体的に溶けるようにみえる。知らないうちに死が迫っていることの比喩としてはあまりよくないのではなかろうか。兼好法師の時代はともかく我々の時代はだんだんと死が近づいてくることぐらい皆感じているわけであって、死は生とますます混ざり合ってきている。
こうなると、確かに我々は人生を半分死の領域として考える癖すらついている。わたくしなんかの小1の日記に、笹舟で遊んでいて、人間も笹舟と一緒ですぐ死んじゃうとか書いていたが、――わたくしには無論病気への意識があったのである。いまは、若者全体がそれほど病んでいない人でもいずれ来る死にながら生きる時代への意識があるらしく、なんとなくやる気が出なくなっているのではなかろうか。
先日、ナタリーポートマンがでていた「アナイアレイション(全滅領域)」という映画を見たが、この映画でももはや人間世界は生きるに値するのか懐疑的に見られていて、遺伝子を書き換えていってしまうエイリアンとの接触に関して、人間としての意志が示されない。エイリアンに侵略され別の生物になっても、人間として生き残ってもどちらにも幸福がなさそうなのだ。主人公は、辛うじて自分のエゴを貫いたようにも思えるがよくわからない。それ以前に自分に対して絶望しているからである。
文学でも「もっと絶望を」というかけ声は多くあったが、絶望は純粋経験みたいなもので、案外すぐさま絶望でない何者かに変形していってしまう。
魚のやうに空氣をもとめて、
よつぱらつて町をあるいてゐる私の足です、
東京市中の掘割から浮びあがるところの足です、
さびしき足、
さびしき足、
よろよろと道に倒れる人足の足、
それよりももつと甚だしくよごれた絶望の足、
あらゆるものをうしなひ、
あらゆる幸福のまぼろしをたづねて、
東京市中を徘徊するよひどれの足、
よごれはてたる病氣の足、
さびしい人格の足、
ひとりものの異性に飢ゑたる足、
よつぱらつて堀ばたをあるく足、
ああ、こころの中になにをもとめんとて、
かくもみづからをはづかしむる日なるか、
よろよろとしてもたるる電信柱、
はげしきすすりなきをこらへるこころ、
ああ、ながく道路に倒れむとする絶望の足です。
――萩原朔太郎「絶望の足」
これなんかは、その他のモノに変形しようとする絶望を足に閉じ込めているぶんだけ長時間持ったようなところがある。もっとも、朔太郎は自分が何に絶望しているか白状する勇気がなかった。