主ある家には、すずろなる人、心のままに入り来る事なし。主なき所には、道行き人みだりに立ち入り、狐・梟やうの物も、人気にせかれねば、所得顔に入り棲み、木霊などいふけしからぬかたちも、あらはるるものなり。又、鏡には色・かたちなき故に、万の影来りてうつる。鏡に色・かたちあらましかば、うつらざらまし。虚空よく物をいる。我等が心に念々のほしきままに来り浮ぶも、心といふもののなきにやあらん。心に主あらましかば、胸のうちに、若干のことは入り来らざらまし。
こういうところなんか非常に現代的に感じられるところである。主体なんて言葉が使われていないけれども、我々の空間認識としての自我観みたいなものをよく示しているような気がしないではない。主体がないと虚空になり、そこにいろんなものが入ってしまうのである。鏡もここでは一種の箱である。
もっとも、兼好法師は虚勢をはっているのであろうが、その虚空にはたくさん狐梟をはじめいろんなものを詰めこめる。だいたい、鏡に色やかたちがあれば何も映らないだろうと彼は言うけれども、そんな鏡は不良品ではないか。鏡にはいろいろなものが映るのがおもしろいのである。
いまのテレビや携帯電話なんかも基本そういうものであって、若者達が、携帯の画面を鏡代わりに使って化粧しているのも当然だ。
兼好法師は、むろんかかる事情を知りながら空虚なんだ、と言い放っているのである。主体とは「主(あるじ)」であって、これは文字通りとられる必要がある。一家を構えなければ主体ではない。方丈の人や箱男にはじまり、一家を構える人だけが兼好法師に褒められる。これに比べれば、大学人は丁稚かせいぜい何もしていない若旦那みたいなものだ。こういう場合、主体であるためには、むかしから金に困らない坊っちゃんか、強引にご隠居扱いにするしかない。そのなかに、石川啄木や太宰治、本居宣長みたいなやつが出てこないとも限らない。
群れを離れてやはりじいっとして聞いているフランツが顔にも喜びが閃いた。それは木精の死なないことを知ったからである。
フランツは何と思ってか、そのまま踵を旋らして、自分の住んでいる村の方へ帰った。
歩きながらフランツはこんな事を考えた。あの子供達はどこから来たのだろう。麓の方に新しい村が出来て、遠い国から海を渡って来た人達がそこに住んでいるということだ。あれはおおかたその村の子供達だろう。あれが呼ぶハルロオには木精が答える。自分のハルロオに答えないので、木精が死んだかと思ったのは、間違であった。木精は死なない。しかしもう自分は呼ぶことは廃そう。こん度呼んで見たら、答えるかも知れないが、もう廃そう。
――鷗外「木精」
流石鷗外で、「木精は死なない。しかしもう自分は呼ぶことは廃そう。」という態度が近代なのではなろうか。我々はまだ兼好法師の段階だ。