★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

技術と人生

2021-08-24 23:55:47 | 文学


よき細工は、少しにぶき刀をつかふといふ。妙観が刀はいたくたたず。

技術の問題については、ハイデガーとか西田幾多郎とか三木清とかいろいろ言っているし、木から仏像が自ら掘り出されるんだとか言わせている漱石先生とか、――枚挙にいとまがない。

作家の色紙もそうかもしれないが、自筆原稿なんかも作家の「技術」を感じさせるものかもしれない。それは技術そのものというより、作家の作業過程の不可視を感じさせるからなのであろう。だから、達筆な鷗外なんかはかえってテクニシャンだと思われず、ちょっと字が汚い作家の方がありがたがられているような気がするのである。漱石はあまり字がうまくないし、太宰もそうだ。三島は習字の時間かみたいな字を書くからなにか逆に不安になるが、安部公房なんか明らかに自分のキャラクターを乗っけた字を書いている節がある、――かもしれない。中上健次も集計用紙にマンダラみたいな原稿で、いかにもという感じがするし、バルザックなんかもああ確かにね、という感じだ。

もっとも、こういうことを意識する我々が自分で技術を操作することができる錯覚を持つに至ると苦しみが始まる。

今の日本人は、しがない大学院生ににている。院生としての成長があるときは、精神が研究に対して受け身の時で、積極的に成長を目指して自己改革的に研究すると次々に美質を失ってゆく。これはよくあることである。原因は、自分を対象としてみる、意識的操作に対する過信なのである。突然、議論のなかに放り込まれて、弁証法的な発展をすり込まれたりするからそうなるわけであろうが。。。

日本人は、ネットの住民を中心に、知らなかったことを知ったり、長年の疑問が今日解けたうれしさみたいなもの(――受動的なものである)を失って、いままでのものを乗り越えなければ死ぬみたいな、余裕のない研究者みたいな人間になりつつある。そりゃ性格も口も悪くなる。我々が見ているものは対象ではなく操作もできる「もの」ではない。もともとそうではないものをそういう「もの」として扱えば、それが変化しないのに苛立って仕舞うわけである。我々の扱っているのは、人生であって「もの」ではない。

無理矢理、今の世の中で人生を擁護しようとすると、過剰に自由を主張するだけではすまず、なにか事件的なものに巻き込まれるのがおちである。自由はようやくそれによって実現する。

小説は此錯雑なる人生の一側面を写すものなり、一側面猶且単純ならず、去れども写して神に入るときは、事物の紛糾乱雑なるものを綜合して一の哲理を数ふるに足る、われ「エリオツト」の小説を読んで天性の悪人なき事を知りぬ、又罪を犯すものの恕すべくして且憐むべきを知りぬ、一挙手一投足わが運命に関係あるを知りぬ、「サツカレー」の小説を読んで正直なるものの馬鹿らしきを知りぬ、狡猾奸佞なるものの世に珍重せらるべきを知りぬ、「ブロンテ」の小説を読んで人に感応あることを知りぬ、蓋し小説に境遇を叙するものあり、品性を写すものあり、心理上の解剖を試むるものあり、直覚的に人世を観破するものあり、四者各其方面に向つて吾人に教ふる所なきにあらず、然れども人生は心理的解剖を以て終結するものにあらず、又直覚を以て観破し了すべきにあらず、われは人生に於て是等以外に一種不可思議のものあるべきを信ず、


――漱石「人生」