★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

人間関係とカブトエビ

2021-08-20 23:07:52 | 文学
人の田を論ずる者、訴へに負けて、ねたさに、「その田を刈りて取れ」とて、人を遣しけるに、先づ、道すがらの田をさへ刈りもて行くを、「これは論じ給ふ所にあらず。いかにかくは」と言ひければ、刈る者ども、「その所とても刈るべき理なけれども、僻事せんとて罷る者なれば、いづくをか刈らざらん」とぞ言ひける。理、いとをかしかりけり。

田んぼの所有権を主張して負けた人が、悔しさで、「あの田んぼの稲を刈ってしまえ」と使用人に命令したところ、道すがら関係ない田んぼの稲を刈って進んでいった。「それは訴訟した田んぼじゃねえじゃねえか、どうするんだ」と聞くと、彼らは「もともと当該田んぼでさえ刈ってよい理屈はないんだ、めちゃくちゃなんだかからどの田んぼを刈っても一緒よ」と言った。この理屈おかしかった――。

全然おかしくねえよ、と思いたいところであるが、確かにおかしい。もっとも、これを「をかし」と喜んでいる兼好法師はもしかしたら、当時の農民達のシンパだったのかも知れない。

伏石事件のときも、地主に反抗した農民達がたしか稲刈りして米は渡さぬ挙にでて抵抗したのだ。この訴訟した男、もしかしたら地主に抵抗して私有を主張した勇気ある男だったかも知れないのだ。それを知って、使用人達も、他の稲もついでに農民達のものと化してしまおうと画策したのではないだろうかっ

たぶん違うのであろうが、米を作るというのはホントに大変な作業に違いなく。所有権を主張するにせよ、プラモデルを所有するのとはわけが違うのだ。多くの使用人達との人間関係、権力関係を調整して行かなければならない。非常にしんどい世界なのである。経験したことはないが、里山信仰で盛りあがっている夢追い人を見ていると心配になる次第である。



田んぼにたくさん、カブトエビがいた。こういう物は、ある意味で農村を成りたたせる媒質である。こういうものに権力関係を行使するわけにはいかないからだ。コミュニケーションはカブトエビのようになっていなければならない。

最近は、指導や教育を、指示や命令に置き換えていっているほんと危険な人物がたくさんいる。シラバスにかかれていることは指示とか命令なのであろうか。お願いベースなのであろうか。わたくしは一般的恩寵のつもりなのであr(謝罪します)命令ならそうするわ、みたいなせりふを人形みたいな女のキャラクターが言ってる分には違和感がないかも知れない、しかし、そういう人形みたいなやついっぱいるだろう。そういう人間を余りつくらせないためにか、田んぼには案山子がたっていたのではなかろうか。