★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

老い

2021-08-07 23:53:57 | 文学


人の終焉の有様のいみじかりし事など、人の語るを聞くに、ただ、閑にして乱れずと言はば心にくかるべきを、愚かなる人は、あやしく異なる相を語りつけ、言ひし言葉も、ふるまひも、おのれが好むかたにほめなすこそ、その人の日来の本意にもあらずやと覚ゆれ。この大事は、権化の人も定むべからず。博学の士もはかるべからず。おのれたがふ所なくは、人の見聞くにはよるべからず。


芥川龍之介の「土」は、老人の生き様、というか生き恥を描いた傑作だと思う。芥川龍之介の功績は、彼が若くして老人みたいなところのあったひとであったせいか、老いを描くことにかけては漱石とか鷗外よりも真に迫ったものがある気がする。彼は如何に死ぬかみたいなのがずっとテーマの作家だったのである。これが、晩年の作品でむりやり青年ぽいことを書いて病んでしまったのではないかとわたくしは思う。老いに関しては、ひそかな終わりを想定することにによって、そのあとどうなるか分からない範囲を狭めることが出来る。芥川は、歴史的ななにかを――つまり物事の後を描きたい欲望が強く、人は比較的簡単に生を終える必要があるのだ。

これに比べると徒然草の御仁は、見苦しくない最期を、みたいな想定があって、――おそらく武士のそれを想定しているんだろうが、生の豊かさはもう埒外なのである。実際は、老いというのは、生の豊かさを狭めないどころか、若い頃の因果が激しく現れる豊かな時代なのである。

とはいっても、エネルギー自体は枯渇してくるので、どうしても言動そのものがシンプルになりやすい。心とは別にそうなってしまう。わたくしとしては、ひでえ世の中を馬鹿にせず迷いながら死んで行きたいと思っているが、――実際のところ、馬鹿にしていると見えるだけで心の方はさいごまで迷いで溢れている人がほとんどではないだろうか。

むしろ、わたくしに限らず、半端に勉強した人の方が危険だ。日本の近代の名だたる文芸評論家達はなぜか「もう勉強せずともお前のなかに真実はあったのだ」みたいなことを伝えてしまうことがあり、そのままぼやっとしながらじいちゃんばあちゃんになってしまう人がかなり多いわけで、まあそういう人に強制的に勉強させるだけでも文学部の意味はあったわけだが(――わたくしも、「お前は民衆の実態がわかっていない」、とか一度言うてみたいが、さすがにそんな欲望を絶つ訓練は少しはやっている)、案外その生ざとりの癖は抜けない人が多いと思うのだ。

吉本★明の「情況への発言」みたいなのは、『情況』に誠実であれば勉強せずとも人を罵倒出来るみたいな勘違いを与えたところがあるし、小林秀雄の講演の「理屈にはあきた」みたいな発言をそのまま受け取った人も多い。彼らの主著よりもこういう自由な放言みたいなものに影響力があることは本質的なことで、かならずしも馬鹿にすべきでないとおもうが、アホが真似るとダメ問題は結構大きいのだ。

確かに小林秀雄や宮台真司が言うように我々に魂が感染することがあるが、我々の精神は愚かなので、体への感染のように似たような症状がでるっというわけではない。それでも感染は止まらないのが、人生――いや人間社会である。