平宣時朝臣、老の後、昔語りに、「最明寺入道、ある宵の間に呼ばるる事ありしに、『やがて』と申しながら、直垂のなくてとかくせしほどに、又使来りて、『直垂などのさぶらはぬにや。夜なれば異様なりともとく』とありしかば、萎えたる直垂、うちうちのままにてまかりたりしに、銚子に土器とりそへて持て出でて、『この酒をひとりたうべんがさうざうしければ、申しつるなり。肴こそなけれ、人はしずまりぬらん。さりぬべき物やあると、いづくまでも求め給へ』とありしかば、脂燭さして、くまぐまをもとめし程に、台所の棚に、小土器に味噌の少しつきたるを見出でて、『これぞ求め得て候』と申ししかば、『事足りなん』とて、心よく数献に及びて、興にいられ侍りき。その世にはかくこそ侍りしか」と申されき。
最明寺入道(第5代執権平時頼)は仁政をひいたとむかし習った気がするが、さすがに年齢を重ねてくると、仁政をひいているイメージの人物が、しばしば、現にある関係性を無視して正論もどきを言い後始末は周りに任せるようなエゴイストであることを知る。そういう正論が暴力というかたちをとっていた時代があったのである。そういうエゴイストは様々なことへの興味のなさから潔癖であり質素さに陥る。わたくしは、こんな質素礼讃に、武士のメンタルを覆っていた、形式論理的な自認主義というか、なんというかわからないが、――そんな何者かの存在を推測する。
戦国時代に横行した権謀術数は、きわめて形式主義的なパズルのようなものであって、本質的な意味で人を騙しているとは言えない。彼らは人間関係をコミュニケーション的に認識している。而して裏切りと服従が基本的なパタンとなり、それが政治だと思っている。民主主義は人間関係が文化的である必要がある。味噌だけで文化が成り立つであろうか。彼らが読めないのは空気ではなく文化である。
口先野郎みたいなのが増えたのもたぶん学者に限らず「ぼくのいまのプロジェクト」とか「ぼくのミッション」みたいなもので自分をなりたたせていることと関係がある。そういう子どもの宿題以外にも様々なことはやらなきゃいけないし次々に責任は自然に負っているんだが、いつまでも夏休み状態の人生だ。いまはまだひそかに世話を焼いてくれているお母さん役がいるのかもしれない。いや、もう実際おらんでしょ。文化は、そのお母さんを含めた形で生長するもので、職域奉公しているやつには生じないのである。職域奉公とは、権力とのコミュニケーションに過ぎない。
オルテガ言うところの大衆(いわゆる「研究者」はその代表例である。)に対抗する道は普遍人的なありようしかない。とても大変なみちである。
時に、クリティシズムの骨肉をなすこの組織や枢軸なるものは、感性理論(エステーティク――そこから美学という意味が出た)としての哲学によって現わされている。そう云う他、恐らく考えようはあるまい。クリティシズムの対象が単なる感性的なるものではなく、もっと悟性的な反省物の所産(例えば科学や哲学の如き)であっても、大体に於てこの点変更を必要としない。クリティシズムから見れば、一切の批評対象が、何等かの感受から始まる。印象から始まるのである。批評は凡て印象批評として始まる。
――戸坂潤「クリティシズムと認識論との関係」
もっとも、戸坂のようなタイプがこういうことを言うと、いわゆる「感性」で食っていると自負する人々が、お前が言うな、みたいな文句を言いかねないのが近代の日本であった。