そもそも、人は、所願を成ぜんがために、財を求む。銭を財とする事は、願ひを叶ふるが故なり。所願あれども叶へず、銭あれども用ゐざらんは、全く貧者と同じ。何をか楽しびとせん。この掟は、たゞ、人間の望みを断ちて、貧を憂ふべからずと聞えたり。欲を成じて楽しびとせんよりは、如かじ、財なからんには。癰・疽を病む者、水に洗ひて楽しびとせんよりは、病まざらんには如かじ。こゝに至りては、貧・富分く所なし。究竟は理即に等し。大欲は無欲に似たり。
ここで兼好法師は、富豪を目指すような欲望と無欲であることが同一物だと言っているのではなく、二者が物事の側面として似るような世の中の摂理を見たというに過ぎない。むろん、だいたいにおいて二者は似ようがないからだ。大欲と無欲は似ていない。しかし、大欲を観察してみたら、それが無欲という基底に支えられていることを見出した発見なのである。
おなじようなことは文章についても言える。我々は文章に書かれている物と既にある何者かを同一物とみなして、そうでないものを新たなものと認識するのであるが、それは、認識を物みたいにみたい場合であって、文章の認識とはそもそもその解釈――それは可能性としての思想みたいに現れるしかないものである――全体そのものであって、それは文章外部と様々な繋がり方をしているのである。それは繋がっているのであって同一物ではない。
法はスポーツのルールの延長にあるという説がある。だから法にも遊びのニュアンスがつきまとう。しかし、それは遊びと同一物ではない。だから、ルール先に作って競技は正しいはずと言い張る人も出てくるわけだ。そのときにも遊びの気分は確かに残る。
だから、我々には、小説でも論文でも法律でも、それが根本的に自由を目指しているものであるかが重要になってくるわけである。新たなものではなく目標が自由であるところの表現があるはずである。それは、ピアノ独奏のようなものだ。
岡城千歳氏の弾く、マーラーやチャイコフスキーのシンフォニーをきくと、ある意味でテクストと作品の違いみたいなことを考えさせられる。オーケストラは根本的に多数の人間が勝手にやってるものなので、作品というよりも可能性としてどこに接続してしまっているかわからないテクストみたいなところがあるが、多重録音であってもピアノ独奏でなされたそれは一人の統制下にある作品みたいなものだ。チャイコフスキーやマーラーはその意味で根本的には音楽が非常に作品的だと思う。統制された独白みたいな感じで、ピアノ独奏にあってるきがするのであった。
むかし、オーケストラや吹奏楽団をやってたころ、ピアノやってたやつの演奏は合奏には合わないと言われたことあったなあ。。。論文でも小説でもそういうことある。読者や他の書き手との合奏に合わない書き手がいるのである。
付記)今日は、ワクちんの副反応で一日中寝てた。39度近くまで熱が上がってびっくりした。