大方、振舞ひて興あるよりも、興なくてやすらかなるが、勝りたる事なり。客人の饗応なども、ついでをかしきやうにとりなしたるも、まことによけれども、たゞ、その事となくてとり出でたる、いとよし。人に物を取らせたるも、ついでなくて、「これを奉らん」と云ひたる、まことの志なり。惜しむ由して乞はれんと思ひ、勝負の負けわざにことづけなどしたる、むつかし。
毎日鯉をさばく練習をしているから俺にやらせろ、と言って盛りあがった宴会があったというエピソードに対し、わざとらしいのはいやだねえという兼好法師であるが、それは謙譲の美徳みたいな話とは違う。問題は私性を守る倫理なのである。
私小説を書くことは学会で挨拶回りすることに似ている。
問題を共有する、いまのネットのコミュニケーションのようなものが学問共同体には昔からあって、共有されないものがあるという前提が意識から飛んでしまう危険性がそもそもある。だから、学会に居場所があるような人間が、しばしば自分の指導学生や自分の子どもに対して、進路や生き方を強制してしまう風景が見られるのであった。人生を共有される「問題」だと思っているからそうなるのだ。これは学歴主義みたいなものともからんでいる。彼らにとっては、紆余曲折ある経歴の人間はわけ分からないものを抱えているようにみえるから問題にしにくいので、嫌う。単に権威主義だから学歴主義になるのではない。
近所のコープで商品値引き券の2等があたって「おめでとうございます」といわれ、たぶんこれを言われたのはほんと久しぶりのような気がした。大学や大学院をでたときも就職したときもたぶん言われてないし、そういえば結婚したときには言われた気もしたが社交辞令だからそうは聞こえなかった。商品値引き券で何か嬉しい気がするというのはおもしろい。世界情勢のニュースには関心がなくても、スーパーのポイント還元とかポイントがなんちゃらとかには確実な記憶力と行動力をみせる人々の気持ちが分かってきたのであろうか。そうではないと思う。ちなみに、インセンティブが仕事をするかしないかの鍵になっている大学人の気持ちもあんまり分からない。思うに、商品値引き券のデザインがかわいかったからではなかろうか。
かくも人の気持ちというのは訳が分からないもので、原因を探ってもたいてい訳が分からない。
村田沙耶香の「コンビニ人間」は人気のある作品であるが、読者がなにか自分の私性に触れる作品だとおもったからではないだろうか。村田氏のよさは、コンビニ店員になることで世界の居場所をみつけるみたいな歯車みたいな主人公を「問題」にしなかったことであろう。
私の小説、それはムリだな。私の小説は、小説が全部なのだから、私の小説は、私の小説だけでたくさん。私はたしかに情痴作家だ。なぜなら情痴を書いてゐるから。情痴のために情痴を書いてゐないなどと、私は今、ここで何をいふ必要もないのだ。全ては私の小説自体が物語つてゐる。小説は偽ることのできないものだ。
私はさういふ一部の読者に忠言をこころみたい。有害無益な小説は読むなかれ、といふことである。有害無益を知りつつ読むなら読者の教養、人格はゼロだ。
小説といふものは、全く異質の二つがある。一つは読み物で、一つは文学である。この二つがどういふふうに違つてゐるかは読者自らが学問すべきことであつて、文学とは何か、文学を理解するには、いくらか教養が必要だと知らなければならない。
然し教養といふものは、決して書物を読むだけが能ではない。同じ考へる生活でも、考へる根柢の在り方によつては、むしろ考へることによつて考へない人よりも愚劣な知識があるものだ。知識は偽はることの多いものである。
――坂口安吾「私の小説」