シテ、ツレ真の一セイ「高砂の、松の春風吹き暮れて、尾上の鐘も響くなり、
ツレ二ノ句「波は霞の磯がくれ、
シテ、ツレ「音こそ潮の満干なれ、
シテサシ「誰をかも知る人にせん高砂の、松も昔の友ならで、過ぎ来し世世はしら雪の、積り積りて老の鶴の、塒に残る有明の、春の霜夜の起居にも、松風をのみ聞き馴れて、心を友と、菅筵の、思を述ぶるばかりなり、
下歌「おとづれは松にこと問ふ浦風の、おち葉衣の袖そへて木蔭の塵を掻かうよ、木蔭の塵を掻かうよ、
上歌「所は高砂の、所は高砂の、尾上の松も年ふりて、老の波もよりくるや、木の下蔭の落葉かくなるまで命ながらへて、猶いつまでか生の松、それも久しき名所かな、それも久しき名所かな、
千載集や古今集を引きながらの老夫婦のせりふである。彼らは自分の気持ちを語る者ではあるが、――語られる内容が他人の心情でありそれをくり返し詠ってきた人間の心情でもあり、しかしかといってみんがそんな文化を知っているはずだという地点に頑張っているわけでもなく、「木蔭の塵を掻かう」、「それも久しき名所かな」という誰でも分かる部分をくり返し、自分達を平凡な現在の出来事としても説明している。一部は過去や共同体につながりながら、全面的にそうでもない。
しかし、文化より何より老人にはそもそも人としての過去があるのだ。当たり前であるが、最近はこういう自明のことが忘れられ、現在の価値だけで人間が測られようとしている。むろん、過去の栄光だけでなく罪がなかったことにされようとしている。
それにしても、松という植物、よくみると結構面白いかたちをしている。――全体的にダリみたいな雰囲気を漂わせているような気がする?ダリの絵にもあるのは現在ではなく、過去の何かである。写実的であることは、過去を映し出す。ミロの絵は逆に現在の喜びや悲しみに向けられている。彼の若い頃の農家の絵なんかも、そこには過去へのしみったれたものが完全に排除されている。ダリはセンチメンタリストなのであり、高砂みたいなものだ。木すら常に人間に変容し、その逆にもなる。それは、人間とものののある種の絶対的な脆弱さを示している。
小さんのはなしに、庭師の八五郎が殿さまの前へ呼ばれて松を移すことをいひつかる、八五郎しどろもどろに御座り奉つて三太夫をはらはらさせるといふのがあつた。其の時八五郎は松に酒を呑ませ、根へするめを卷いて引けば枯れないと説いてゐたが、私の雇つた留さんも「松に呑ませる酒」を買はせた。するめは忘れたかしていはなかつた。前にも入口の松の赤くなつた時、酒を呑ませれば生きかへると、薄めてかけたが、不思議にみどりの色をとり戻した。根へ酒を注ぐ、土に泌みる、泌みて腐る、何か肥料の成分となるのであらう。それにしては松に限つて酒がいるのはどうした理くつか、讀めない。するめに至つては猶さらだ。
――横瀬夜雨「五葉の松」
そういえば、大学院のころ、観葉植物にいつもわたくしが読んでいたコーヒーを差し上げたところ、みるみる枯れた。悪い事をした。