一とせあまりも、程過ぎて、書置きせし枕、とり出しみれば母親の筆にして、書き付けおかれし。 「世を見るに、嫁としよりて姑となる。人の心のおそろしきに、艶しき狼を恐れる。子のかはゆさあまりて、をしからぬ身なれば、千とせもちらぬ花嫁子に、命をまゐらす」と、書き残されし。これを聞きつたへ、人のつき会ひかけて、おのづから、取りこもりてありしが、夫婦、さし違へて果てける。
これは不孝話には違いがないが、嫁姑のお話にみえる。よい姑に嫉妬した嫁が家を出て行ってしまい、それ苦にした姑が死ぬと、嫁が喜んで帰ってきた。夫の方は大して深く考えもせず、残された親父も放置していた。すると、嫁が出て行ったときに嫁が手紙を書き置いていた枕には、死んだ母親(姑)の言葉が書かれていた。自分も姑になる嫁なのに自分(姑)を恨んでいるとはなんと人の心はおそろしいものだろう、これにくらべれば狼などかわいいものである、子の可愛さ余って自分なんかどうでもよい身だから、嫁に命をくれてやるわ、――のような文意であろうか。。
嫁姑問題とは、やはり不孝の問題なのである。そして、不孝の問題はつねに嫁姑のような嫉妬の問題を引き連れてくる。ここでは、最終場面で母親(姑)の遺言が枕から発見されて、まるで母親がよみがえったかのようだが、もともと嫁姑の問題は、夫にとっての母親への愛や、嫁にとっての夫からの愛といったものが、改めて幽霊的に復活してしまう問題であって、それは不孝なことが起きがちだからといって復活をやめることが出来ない。生きることは、それをなんとかしてしまう人間であることであるが、それを全員の死で解決させようとするのが、不孝の観念である。結局、これらを軟着陸させるのが生き方の問題なのであるが、それがいまのわれわれと違わない倫理観である。我々は、こういう、面倒くさい生き方を強いられたから、成長を強いられていた。これが最近揺らいでいるのは確かかも知れない。生まれたときから、死ぬまで家族が仲良くしてれば万事OKというわけで、全員が子どもみたいな顔つきで老いて死んで行くことになる。
いまごろ言っても遅いけど、近代文学の理解に壁があるのは、明治大正昭和が遠くなったこともあるけれども江戸の文藝に対する我々の無知にも原因がある。源氏平家だけ読んでる場合ちゃうのである。我々の倫理的な下半身というか、そういうものの理解は文学にとって重要で、やっぱり江戸期辺りまで辿ってみる必要がある。我々は保守しようにも改革しようにも、何を、の部分の把握が怖ろしくめちゃくちゃなのであり、昔からそうなのであるが、やはり倫理的な判断を下している主体は物語に確かにあって、それが我々にもまだ流れ込んでいる。
私の家では、子供たちに、ぜいたくなものを食べさせない。子供たちは、桜桃など、見た事も無いかもしれない。食べさせたら、よろこぶだろう。父が持って帰ったら、よろこぶだろう。蔓を糸でつないで、首にかけると、桜桃は、珊瑚の首飾りのように見えるだろう。
しかし、父は、大皿に盛られた桜桃を、極めてまずそうに食べては種を吐き、食べては種を吐き、食べては種を吐き、そうして心の中で虚勢みたいに呟く言葉は、子供よりも親が大事。
――太宰治「桜桃」