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奈良坂や、時雨に菅笠もなく、手貝といふ町より、夜をこめての旅出立、鶏も、われと鳴きくらべして、行くは誰が子ぞ。
刀屋徳内といふ者のせがれ、諸芸に器用なりしが、鋼鉄反へまはり、ぬけ鞘持つての喧嘩ずき、親にいく度か、袴を着せ、常にも不孝なれば、目せばき所よりいひ立て、旧里きらせて、その里を追ひ出しの鐘の鳴るとき、春日野を跡に、
――「古き都を立ち出て雨」
「鋼鉄反へまはり、ぬけ鞘持つての喧嘩ずき」――刀屋のせがれで、器用であったが、刀の鋼が峰に廻るような才気があって、すぐに喧嘩に出て行くようなやつであった。親は頻りに袴で謝罪をしていた。そして、せがれは郷里を追われた。江戸で大根を売っていたところ、武士の子どもを助けてハッピーエンド。だいたいこういう話だった気がする。
西鶴の親不孝話をたどってきて、これらの親不孝の話として機能するためには、刀屋のせがれと親と言っただけでなんらかの親子関係が想起されるようなかんじでないといけないとわたくしは思う。これが我々の多くのように脊髄反射的に「親子もいろいろあるよね」という一般論がまず口をついて出てくるようでは、不孝話が単に不運や偶然の話になりかねない。
祖母は三浦綾子を読んでいた。同志のように読んでいたのかもしれない。三浦綾子は教師あがりの作家だったが、祖母は教師あがりの主婦だったのである。いまも何人か教師あがりの作家はいるが、そんな感じで偶像となっている作家はいるのか。たとえば、重松清や湊かなえはどうであろうか。教師あがりに限らず、そういう共感が失われているようなきがする。他人が同じような不幸を体験してきたと思わなくなっているわけである。我々の職業倫理観に大きな変更があった気がする。
そういえば、三浦綾子の少し年下の田辺聖子は、専門学校(今の私大)の國文科出身の大坂人である。そして、おそらく、我々がいだく重松清や湊かなえのイメージはこちらに近い。
作家や教師は、職業ではなかったのだ。宿命のようなものであったはずだ。彼らの人生はどこか不孝話に似ている。宿命は偶然と不運に見舞われている。自分で摑んでいる人生は孝行にもなるし成功譚でもある。「本朝二十不孝」が孝行話ではなく不孝話なのは、近代臣民的個人主義の教科書に載っている孝行話と鋭い対照をなしている。