★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

複数の消失点

2022-11-25 23:51:05 | 文学


中村君は不幸にも清閑を可能ならしめる心境以外に、清閑を不可能ならしめる他の原因を認めてゐる。「しかしもつと根本的なことは、社会的環境だと思ふ。電車や自動車や、飛行機の響きを聞き、新聞雑誌の中に埋もれながら、たとへ金があつたところで、昔の人人が浸つた「清閑」の境地なんか、とても得られるわけがない。」これは中村君のみならず、屡識者の口から出た、山嶽よりも古い誤謬である。古往今来社会的環境などは一度も清閑を容易にしたことはない。二十世紀の中村君は自動車の音を気にしてゐる。しかし十九世紀のシヨウペンハウエルは馭者の鞭の音を気にしてゐる。更に又大昔のホメエロスなどは轣轆たる戦車の音か何かを気にしてゐたのに違ひない。つまり古人も彼等のゐた時代を一番騒がしいと信じてゐたのである。いや、事実はそれ所ではない。自動車だの電車だの飛行機だのの音は、――或は現代の社会的環境は寧ろ清閑を得る為の必要条件の一つである。かう云ふ社会的環境の中に人となつた君や僕はかう云ふ社会的環境の外に安住の天地のある訣はない。寂寞も清閑を破壊することは全然喧騒と同じことである。もし嘘だと思ふならば、アフリカの森林に抛り出された君や僕を想像して見給へ。勇敢なる君はホツテントツトの尊長の王座に登るかも知れない。が、ひと月とたたないうちに不幸なる尊長中村武羅夫の発狂することも亦明らかである。

――芥川龍之介「解嘲」


だから芥川龍之介は、電車や飛行機などを素直に認められずに、二重身なんかがみえてきちゃうのだと、批判するのは容易である。ショーペンハウエルは鞭の音を気にしていた。これを騒音の一つとみてしまうことで、芥川龍之介は観念に縛られることになる。でも関連づけられたもの自体はそう見えないから認識が常にゆらゆら揺れるのである。芥川龍之介はその認識を空間的なものとして誠実に記述し死んでいった。

絵画の技法で、複数の消失点の設定というのがある。視点の移動による揺籃が空間を把握させるのである。

何かを評価しなきゃいけないときには、複数の消失点による把握みたいなものが必要で、これができずに、一点が一点だけに見える精神がものすごく増えてきている。これだといくら評価項目そのものを増やしてもだめだ。チェックシートとか応募要項の項目の増加とかそのたぐい。昔のインテリだったら形式論理、そうでなくてもバカと呼んでたやつである。人の言っていることがわからない、というのがよく発達障害の特徴して語られるが、病気の問題としてどうかはよく分からないとしても、原因には普遍性がある。