勿体なくも、親達に足をさすらせ大小便とられ、冥加につきし身のはて、親のばちあたりと、名のりける
「無用の力自慢」、高松の相撲取りのはなしで、心配した親が嫁をあたえてもずっと相撲に熱中し続けていて、四国一の力士となったが、あるときそれ以上の大力にあっさり投げられ砂にめり込み複雑骨折してしまった。で、半身不随となった彼は親に下の世話をされつづけて、「親の罰当たり」と名乗ることになったのであった。
わたしにも相撲を目指す同級生たちがいた。ちょっと相撲が盛んな土地柄であって、何の因果か、御嶽海まで出現してしまった。とはいっても、御嶽海は、海の向こうからきたマルガリータさんがいたから、であって、予想を超えたものはマレビトとしてやってくるものだ。高松の相撲好きの遺伝子にもそれがあったのかもしれないが、どうも上のように大したことはなかったようだ。他のマレビトにあっさりやられてしまったのである。
昨日も、西田幾多郎の「知と愛」について偉そうに語ってしまったが、ちゃんと学生は、この文章において不十分で重要な用語が「直覚」であることを読めてた気がする。直覚も愛が知であり知は愛である状態を招来するなにものかである様な気がする。透谷の内部生命の眼の獲得なんかもなにかの招来した結果である。――のだが、高松の相撲取りもつい相撲に知としての愛だか愛としての知だかを至高のものとして興奮した結果、ほんとのマレビトが外からやってきたときに案外もろいものである。
西田幾多郎と夏目漱石を比較して、ナショナリズムと個人主義の相即性みたいな話を授業でするのもちょっと飽きてきた。しかし、わたくしは外部とかを容易に出してくるのはいやなので、マレビトがマレビト2として回帰してくることを想定したい。我々は、内部にマレビトを取り込んでも、同じようなマレビトを引き寄せて滅んで行く。