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思想そのものは実は「思い煩い」であり、袋路である。はてしなき迷路である。知識階級とは、この意味においては、永遠の懐疑の階級なのである。立命のためには知性そのものを超克しなくてはならぬ。知性を否定して端的に啓示そのものを受けいれねばならぬ。それは書物ではできない。その意味においては、弁証法的神学者がいうように、聖書でさえも啓示を語った書ではあるが、啓示そのものではないのである。
かように書物と知性から離れて端的に神の啓示につくまでの人間超克の道程に読書があるのである。読書は無意義ではない。啓示を指さす指である。解脱への通路である。書を読んで終に書を離れるのが知識階級の真理探究の順路である。
――倉田百三「学生と書物」
こういう超克にはろくなことがない。実際には、書物を読むのをやめただけなのになにかが超克されたと思い込む。
諸井誠氏の『音楽の現代史』は高校生の頃だったか、出版された当時読んだ覚えがあるが、これはいま読むと案外難解な書であるように思われる。これは政治の現代史と現代音楽史をミックスさせたような時空に向かっている。諸井氏自身は「現代史の視点で、音楽と政治の関係を解き明かす」と言っているのだが、実際はちょっと違っている。諸井氏は、『交響曲名曲名盤100』の最後でも、ショスタコービチの「死者の歌」とメシアンの「トゥーランガリラ」を、死と生の関係としてとらえて、その間で交響曲が死んだ、みたいなことを書いていた。西洋音楽の精神が擬人化されている。文学でもこの時代は似たような文学史があるように思うが、学生時代の私の疑問は、こういう試みが何故に、音楽の擬人化に留まり、歴史の植物化、つまりシュペングラーみたいな感じにならないのかだった。
諸井氏自身は、親父譲りの西洋近代の超克的な意図を明らかに持った曲をかなり書いているようにおもえるが、西洋音楽を語るときには、日本の現代音楽の軸が抜けている場合が多かったのかも知れない。これは冷戦もてつだっていて、『音楽の現代史』は、着地点がソ連と米国の生み出したものの意味だったし、ひいてはあとがきでも「政治音痴は音楽家であっても許されない」みたいなことが書いてある。本の中ではそれほど単純化はされていないが、やはり政治というのが米ソの対立の観念に解消されている感は否めないところがあるとおもうのである。これは諸井氏に限ったことではない。この書は86年の冷戦末期に書かれていた。まだ、その対立が終わらないような気がしていた頃である。
で、この対立を所与のものとしてそれを越えようとすると、その観念そのものの全面的否定たる「近代の超克」が、ナショナリズムに接近しすぎる次第となる。そしてそのナショナリズムは対立を政治と考えていた事そのものを否定した、――政治の否定となりがちなのである。政治の否定とは単純に、国民の思考停止を意味する。上の「思い煩い」は本質的に政治にしかない。それを否定した地点が「超克」である。
最近は、ウクライナの件で、どうみても米ソの戦争が再発したこともあり、ますます、こういう対立を越えたいみたいな意識がそこここで出てきている。しかし、我々の「近代の超克」は、どうみても世界の思想を股にかけた怖ろしい知の巨人にしか出来ないことであって、実際は、島国の小国である。完全に素人の妄言だが、――我が国が戦争をはじめるというときに、常に、第二次世界大戦がそうであったように、途中で敵じゃなかったやつが敵になったりしても、相手が全く言うことを聞いてくれないような四面楚歌の状況を考えておく必要がある、と思う。つまり台湾やアメリカは本当に味方であり続けるのかというね。。。なぜ四面楚歌になりがちなのか、簡単に勝てると相手が思うからである。これはいまでも否定できない、我々の条件である。