★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

中年の戦争

2022-11-05 23:26:35 | 文学


熊さんはある時、自分の仕事場の三宅坂の水揚ポンプの傍に、一本の草の芽が生えたのを見つけました。熊さんは朝晩その草の芽に水をやることを忘れませんでした。可愛いい芽は一日一日と育ってゆきました。青い丸爪のような葉が、日光のなかへ手をひろげたのは、それから間もないことでした。風が吹いても、倒れないように、熊さんは、竹の棒をたててやりました。
 だが、それがどんな植物なのか、熊さんにはてんで見当がつきませんでした。円い葉のつぎに三角の葉が出て、やがて茎の端に、触角のある蕾を持ちはじめました。
「や、おかしな花だぞ、これは、蕾に角が生えてら」
 つぎの日、熊さんが、三回目の水を揚げたポンプのところへやってくるとその草は、素晴らしい黄いろい花を咲かせて、太陽の方へ晴晴と向いているのでした。熊さんは、感心してその見事な花を眺めました。熊さんは、電車道に立っている電車のポイントマンを連れてきて、その花を見せました。
「え、どうです」
「なるほどね」ポイントマンも感心しました。
「だが、なんという花だろうね、車掌さん」熊さんはききました。
「日輪草さ」車掌さんが教えました。
「ほう、日輪草というだね」
「この花は、日盛りに咲いて、太陽が歩く方へついて廻るから日輪草って言うのさ」


――竹久夢二「日輪草」


村松梢風の息子で慶応の先生だった村松暎が、『文藝春秋デラックス』の古代七不思議の特集で、万里の長城をつくった中国人なのでソ連の厭がらせにかかわらず核兵器つくれた、みたいなこと書いていたのをおぼえている。国防の創意工夫の歴史性が違うんだよという理屈だとおもう。そういえば、ちょっと複雑な関係で、プロレス論の村松友視という人もいた。我々は、いつも、論理能力と事実を認める勇気と事務能力をほっぽらかして戦争をやったりするが、やはりそれは創意工夫の対極に暴力を置きがちだということが関係しているかも知れない。

創意工夫というのは、事務的・機械的な側面をもつものである。声優のせかいなんか、独特な非現実性を獲得しているのだが、感情的なものを喚起するものである。プロたちはすごく技術的な問題をクリアしているだけが、聞く方は異なっている。本来、しゃべり言葉というのはそんなに声色がはっきりしているものではないと思うのだ。そういえば、今日、萩原朔太郎展をみてきた。朔太郎の五〇代での朗読の録音が祝詞みたいな?棒読みで面白かった。我々はアニメ声優文化が浸透して声色使いすぎなのである。朔太郎の場合、詩の内容がもはや感情ではないので、その意味でも当たり前であるのだが。。。。これに比して、戦後の文化は明らかに「感情化」を進めたのである。暴力の代わりに。

この感情化は、表情にも現れていて、表情が感情を顕す際にはかならずずれがあるので、感情的な人間は非常に不気味な顔をしているものだ。菊池寛記念館は菊池寛の展示も面白いけど、芥川・直木賞の受賞者の顔写真のパネルが壮大に並んでて毎年追加されていっている。で、細と一緒に行ったとき、「芥川賞の人たちの顔悪くなってるよね」とかわたくしか細が言っていたが、西村賢太と宇佐見りん氏以外は、なんか喧嘩を売られているような感じがするのだ。

それはもしかして年齢の問題なのだろうか、と考えて菊池寛を確認すると、彼は友人の芥川などが若死にしてるから長生きのようにみえるんだけど、60に届いてないのだ。朔太郎も55歳であまりかわらない。

ジャーナリストの本質的な使命は、単にニュースを報伝するといふのでなく、筆説によつて時代を指導し、文化の新しい思潮を批判し、所謂「社会の木鐸」たる責務を果す事にある。

――萩原朔太郎「詩人とジャーナリスト」


朔太郎は五〇頃、大量に雑文的なものを生産していて、これが案外寿命を縮めているのかもしれない。昭和12年頃のことである。戦争が始まった頃、ジャーナリズムで活躍を強いられたのであった。誰かも言ってたと思うけど、京都学派は戦地にゆく若者のために屁理屈?をでっちあげた節がある。朔太郎だってその可能性はあると思う。日本浪曼派の世代が朔太郎を偶像化している部分があるのはそういうこともある。偉そうなリベラルたちは自分たちが死んでも革命に戦争を転化出来ればいいと思っている。おれたちを殺す気か、と。しかし、当時の「文壇」がそういう抑圧の中のいいひとたちばかりではあったとは限らない。

菊池寛の文藝春秋の創刊の辞かなんかに「自由に物をいえる場所をつくる」みたいな言葉があって、これはいわば文壇そのものが昔の2ちゃんねる的な性格を伴っていたことの証拠にもおもわれるのだ。戦時下のジャーナリズムの一部の文学者はある種の抑制を失っている。老年の知恵がいいとは言い切れないが、昭和10年代の菊池寛や朔太郎の時局への発言は、年長者の諭しにはみえず、青春時代の鬱屈を時代に乗じて晴らしている側面もあるだろうが、壮年の自信過剰な傲岸さすらある。結局、かれらは40、50になったばかりだったという感じがするわけで、昔だからと言って過剰に成熟を期待してはならない。

太陽に引かれてついて行ってしまうのは、体力を失いつつある中年である。