「弟八弥事、変化にもせよ、親の形と見て、これに手づから弓矢の敵対、不孝の心ざしふかし」と、御取りあげもなく、この国を立退きける。
「本にその人の面影」には、狸が化けたところの母親が庭に出てきたところを「なぜ成仏しないのです」と泣いた兄に対して、いきなり弓矢で狸を射殺した弟がでてくる。兄は取り立てられたが、弟は取り立てられなかった。理由は、上の如しである。変化したものとは言え親の形をしているものを射るとは不孝以外のなにものでもないというわけだ。
はたして、弟のような目に見えるものを信じない合理性と、見えてしまったものに直情的に反応する兄のどちらが、「使える」奴なのであろうか。これは案外難しい問題である。江戸時代は、弟のような戦場で役に立つような猜疑的合理性よりも、表面に現れるものに対して素直な平和な感性が重要だったのかもしれない。それにしても、対比が極端だ。もう少し迷う人間はいないのか。兄も弟も反応自体がはやすぎる。たぶんこの方々は勉強が足りないのだ。
勉強そのもの自体がアンバランスをもたらすのはたしかである。そのアンバランスに早く反応するタイプの人間は、はやいうちにそのバランスのとれた世界に憧れて時間をかけて人生を歩むのかもしれない。――つまり、授業中なにがおこなわれているのかさっぱりな状態のなかで生きる面白さをみつけることが必要だった人は、その面白さも若い心と体によって咀嚼されていくと思うのである。しかし、歳とって同じような状態に立ち至ったエリートは、体が動かないから面白さを咀嚼出来ないんじゃないか。で、面白さじゃなくて脳内の快感を目指す。その結果が社会へ悲惨さをもたらす。
彼らは、勉強を頭脳だけでやりきったと思っているのが間違いで、若いから気付かなかっただけだ。役に立つ学問を、みたいな考え方というのは、悪い意味で脳みその働きをいかにも司令塔みたいに考えすぎている。それは同時に仕事や労働すら頭でなんとかなるみたいな考え方でもある。手に職をつけるみたいな考え方の方がまだ役に立つのだ。というより実態に即している。実際は勉強だって頭と同時にどこかしら体が動くことで成り立つわけで手に職をつけているわけである、レポートも卒業論文も。
卒論はとにかく手を動かせみたいな指導が昔からあるけど、あれはその実、意味的には頭を動かせと同じであり、でも手をなんとかしないと頭が働かないからなのである。ほんとは足も動かした方がよい。でも、それだとなかなか文章そのものは出来上がらない。つまり最終的にかなり長い時間、頭の回転だけ激しくしなきゃいけないわけだが、――たしかにそれはちょっとおかしい状態だ。しかし仕事はけっこうそのアンバランスに耐えなきゃいけないことばかりで、実際いい練習なのである。卒論に耐えられりゃあとは耐えられるみたいな言い方が昔からあるのはそのせいである。
だいたい、アクティブラーニングに対して座学を対置するレトリックが一時期流行ってたが、座学みたいなイメージがそもそも学問の実態を誤認しているわけである。実際失敗したグループワークの方が座ってるだけになってる。
こういう誤認はさまざまなところにあって、実際、PDCAサイクルみたいな超絶観念論もその所産である。そんな観念サイクルをエンジンに出来ると考えてる時点で病的ななにかさえ感じる。義務教育あたりで、教員がひたすらそういう観念の旗を振ってコントロールするようなかんじでやってると、コミュニティや仕事の《通常運転》こそ有能さが必要である所以が分からなくなるんじゃないだろうか。で、常に改革やスクラップあんどなんとかで世の中維持されると錯覚する。こういう輩は、気を遣ってうまく仕事を運用するみたいな繊細な仕事を、過保護だとか同調圧力とか集団主義とかいって批判しかねない。主体がニコニコ活き活き働くみたいなファンタジーをまずやめた方がいいのである。仕事はそもそも極めてコマイところに気を遣って行う点でとても難しいものである。