★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

夜は火の柱と現はれて

2022-11-21 19:15:38 | 文学


首領株三十名今夕突然捕縛せられたり、憲兵巡査の乱暴甚しく、負傷者少からず其の多くは婦人小児なり……是れ買収政略の到底効果なきより来れるものと知らる……維持費尽く、
「首領の捕縛」「公権の乱暴」「婦女小児の負傷」而して噫、「維持費尽く」
 新聞右手に握り締めたるまゝ、篠田は切歯して天の一方を睨みぬ、
 白雪一塊、突如高き槻の梢より落下して、篠田の肩を健か打てり、
 午前七時半、警官来れり、
 今や篠田の身は只だ一片の拘引状と交換せられんとすなり、大和は其の胸に取り付きて、鏡の如き涙の眼に、我師の面を仰ぎぬ、
 篠田は徐ろに其背を撫しつ、「君、忘れたのか――一粒の麦種地に落ちて死なずば、如何で多くの麦生ひ出でん――沙漠の旅路にも、昼は雲の柱となり、夜は火の柱と現はれて、絶えず導き玉ふ大能の聖手がある、勇み進め、何を泣くのだ」
 轍の迹のみ雪に残して、檻車は遂に彼を封して去れり、


――木下尚江「火の柱」


自然主義がきまじめに社会運動化したのはキリスト教のおかげだとは教科書にもかいているようなことだ。ここでも「火の柱」は聖書の引用というより、仰ぎつつ彼らを進ませる何ものかである。島崎藤村にすらあるこの何ものかを獲得するのは骨が折れる。人々は簡単に運動と理念を同一視するなどと言う。そこにも個人の人生がかけられていたのだ。