おじいさんは、黙って下を向いていました。正吉の父親は、その前に立って、はさみを見ながら、いろいろのことを思い出していました。
「おじいさん、このはさみをくださいまし。」と、父親はいいました。
すると、黙って下を向いていたおじいさんは顔を上げました。
「こう寒くなっては、どこの家でも冬着の仕度をせにゃならん。このはさみを使った人は、みんなにしあわせがくるから、楽しみにしていなさい。」と、おじいさんはいいました。
正吉の父親は、自分は男で、着物を縫えないが、だれか人にたのんで、子供にだけなりと暖かい着物を着せてやりたいと思いました。
――小川未明「幸福のはさみ」
はさみは子どもにとっては何か怖ろしいものであるから、小川未明はそのことを利用しているのである。しかし次第にわれわれは、道具から我々へのメッセージを受容出来なくなり、「道具」が物体と言うより手段であることを内面化し、哲学に於いてもむかしから技術への問みたいなことを問い続けている。昔の人はいいこと言ってて、バカとはさみは使いよう、という。はさみにもバカにも微妙な能力が宿ることありうるのだ。それは神秘である。
そういえば、むかし音楽の先生が、練習をしつづけると手にもう一つの脳が出来てるんだと力説していた。手に脳みそができるのかと思って気持ち悪いなとおもったが、いま考えると、手に出来なくても、脳のなかにそういう脳がもうひとつ出来てるのかもしれない。手に脳みそが出来る方が面白く聞こえるけど、脳があるわけではない。しかし脳的な機能が手に宿るのだ。
太宰治は、「人間失格」を読む限り、なにか体が動かないような不全感を覚えていた気がする。払拭するように「グッド・バイ」で、女の子が優男を殴ったりしているが、殴っている方は女の方だ。いま、大河ドラマが佳境を迎えていて、そろそろ実朝が神社で暗殺される。実朝は、歌の人で、実力行使は時空を越えた領域に期待している。もう現世では体が動かなかったのかも知れない。「右大臣実朝」の物語を書いた太宰治もあれだな、人気に嫉妬した若き三島由紀夫とか坂口安吾辺りに神社で殴られるとかして死んだならよかったのではなかろうか。女と心中なんて、彼の虚構でもあり現実でもあり、もはや彼は昔から死んでいたんじゃないかと思われるくらいである。しかし、それは我々が脳みそだけになっただけのような感じがすることでもある。
その点、編集者を殴って階段落ちさせた人は、小林秀雄だったか。。彼は批評を明らかに暴力沙汰として書いていた。
今回の大河ドラマは、当然「ゴッドファーザー」をふまえてるだろう。そのパート3の最後はオペラ座の入り口の階段であって、今回も神社は殺人の行われる舞台的なあれでちょうどいいんだろう。しかし、そういえば昔、その劇的すぎるゴッドファーザーの最後には、新撰組の階段落ちみたいなダイナミックさがないとかいった悪友の頭をノートではたいたのはいい思い出である。あまりにくだらない批評には、――小林秀雄に対してであっても暴力的な連中がたくさんいたことを忘れてはならない。
しかし、いうまでもなく、我々の生きている空間というのはなんとなく上下にゆがんでいる。階段落ちがダイナミックであることは、暴力が引力を常に利用していることを思わせる。ウルトラマンの世界なんか完全にそれであった。大河ドラマも、神社の階段での殺人だ。これを我々のような四民平等の世界に移すならば、極力重力を排除して物事は昇華させていくべきなのだ。そうだ、最終回だけ脚本を三谷氏から宮藤官九郎に交代し、小栗旬とのんさんがこれまでに殺された人たちの首でサッカーをしたりバスケットボールをしたりするかんじで、視聴者の感情を逆撫でして昇華させるのだ。
これは冗談ではなく、スポーツの本質にかかわっている。実際、サッカーの起源が髑髏蹴り遊びである。権力や重力をつかった暴力が、平面上の暴力にきりかわる。平面に置かれると魂が堕落するやつが発生する。スポーツの上でこそいじめが発生するのである。いじめは嗜虐である。いじめというのはやられた側にいじめであるかどうかの判断が委ねられている傾向があり、なぜなら、いじめている側が、批判とか対決ではなく嗜虐性を持つことに、やられている側が気付くからである。だから、気付かないといじめとは感じないんだと私は思っていた。しかし最近は何かが変であり、そうでもない場合もあって、最近はハランスメントの観点の導入で、権力関係と力の行使の程度にばかり目がいってるような気がする。もう少し、力を行使するやつの魂の堕落を忘れないようにしないと、単に力の行使を弱めればいいみたいなことになるんじゃないかという気がする。