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おれは泳ぎが出来ねえのだ。白状する。昔は少し泳げたのだが、狸も三十七になると、あちこちの筋が固くなつて、とても泳げやしないのだ。白状する。おれは三十七なんだ。お前とは実際、としが違ひすぎるのだ。年寄りを大事にしろ! 敬老の心掛けを忘れるな! あつぷ! ああ、お前はいい子だ、な、いい子だから、そのお前の持つてゐる櫂をこつちへ差しのべておくれ、おれはそれにつかまつて、あいたたた、何をするんだ、痛いぢやないか、櫂でおれの頭を殴りやがつて、よし、さうか、わかつた! お前はおれを殺す気だな、それでわかつた。」と狸もその死の直前に到つて、はじめて兎の悪計を見抜いたが、既におそかつた。
ぽかん、ぽかん、と無慈悲の櫂が頭上に降る。狸は夕陽にきらきら輝く湖面に浮きつ沈みつ、
「あいたたた、あいたたた、ひどいぢやないか。おれは、お前にどんな悪い事をしたのだ。惚れたが悪いか。」と言つて、ぐつと沈んでそれつきり。
――「お伽草紙」
太宰のいやらしいところは、人(狸)の最期に際して「夕陽にきらきら輝く湖面」みたいなことを嬉しそうに書いてしまうところで、「走れメロス」でも何回かメロスの死が近づいたところで、美しい情景が作者の頭に来迎のように殺到する。太宰は書く主体ではない。死にかかって来迎の侵入を受けているのである。
心には二つの塔あり。
「楕円」とか二つの焦点が、とかバイナリーがーとか様々言われているが、いずれも心がなんとなく平面的に捉えられているのが不満である。塔の斜面を滑り落ちるものに対して我々は無神経であり。二つの塔から見える一つの像が主体と錯覚する。主体性の如きは外部や自分擬きとねじれたり密通しているのが当たり前なんで、自分の考えはどうでもよいんだよぼけっ、という主体性ぐらいがちょうどよい塩梅で主体的である。捨て身の体当たりというではないか。笠こ地蔵のお爺さんは、つい笠を地蔵に載っけてしまったのだ。たぶん地蔵が我々に似ていたからで、別に地蔵が生きていたからではない。そして、一つの塔からは地蔵が正月のご馳走などを運んでくる。もう一つの塔は寒すぎて凍っていたに違いない。
戦前の惨状からして、「命令」は確かに存在するものがおおいが、成果というものに関して言うと、国家を代表格としてほぼ嘘をついていると言ってよい。我が国は、何をやれたか、やったかに関して、源氏物語の主人公の浮気より不確かである。もっとも源氏物語が現実と混じりあってるように、現実も命令の浸潤をうけてる部分が風船のように膨らんでいる。頭の中で。こういう不安定な二項対立みたいなもののなかで生きている我々である。二項対立と見える物は、二つの塔であり、さまざまなファクトがその斜面を滑り降りて行く。そういう我々は、案外、数を数えるみたいなものに確かさを覚えていて、昨今の算数エビデンス主義みたいなのもそれかもしれない。
古典文学に現代的なものを見出すのはよくあることだしそれは古典文学に限らないのだが、いずれにせよ、どう現代語訳したらよいかわからず、どう解したらいいか不明な箇所が大量にありさまざまなことが分かってないことを無視できるならそれでもよいのだ。――いや、やはりそれは二つの塔を無視するこである。戦後の文学研究にだって、戦前への反省があって、古典に対して分かったような口をきくとえらいことになるという雰囲気があった。最近は一部で、一部の学校教育と結びついて分かったような口ぶりが復活している。
こういうときに、もう一つの塔を復活させようとして、思いつきに頼る人もいる。ツイッターなどが流行るのはそのせいである。一方の塔が、論理的に、つまり命令にしたがって嘘をつき続けている時に、条件反射や機械的なものに従ってしまおうというのである。AIもそういう意味で非常に刹那的な希望を表現している。「曰く、惚れたが悪いか。」は、ある意味でAI的なのである。
かかるときに、共同研究というのはそういう刹那的な希望に縋って思いつきで全精力をつかってしまうようなタイプが人の手を借りて5カ年計画でなんかできたよといういえるので便利である。しかし、――すなわち、そういう協同計画以外では案外放言野郎でおしまいになるということを意味しているのであった。かくいうわたくしが案外放言野郎になってきているのでよくわかる。で、ますます共同研究をやるにはふさわしくない訳わからんひとへと変化していくのであった。