★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

ただ遊興は男色ぞかし

2022-11-27 16:03:58 | 文学


惣じて、女の心ざしをたとへていはば、花は咲きながら藤づるのねぢれたるがごとし。 若衆は、針ありながら初梅にひとしく、えならぬ匂ひふかし。 ここをもつておもひわくれば、女を捨て男にかたむくべし。 この道のあさからぬ所を、あまねく弘法大師のひろめたまはぬは、人種を惜しみて、末世の衆道を見通したまへり。 これさかんの時は命を捨つべし。好色一代男とて、多くの金銀諸々の女につひやしぬ。ただ遊興は男色ぞかし。 さまの姿をうつし、この大鑑に書きもらさじと 難波浅江の藻塩草、片葉の蘆のかた耳に、これみな聞きながしの世や。


どんなに美人で気立てがよい女でも、鼻ぺちゃな男子にはかなわない、男色のほうがよいに決まっているといったあとでの結論に当たる部分である。『男色大鏡』の最初の章は、怒濤のように男女のあれこれをくらべて男色がいいだろう、と言い募って行く。竈払の巫女が男の家に行くのと、美少年が油を売って歩くのとどちらがいいと思ってる?とか、お歯黒をつける女と髭を抜く若衆とどちらがよいとおもってる?といった問の結論はもうでていて男をとらなければならない。男色は、そう決まっているのでそうなのだ。弘法大師が男色を伝えたのとうどんを発明したのはそう決まっているからそうである。

髙村薫原作の映画『黄金を抱いて翔べ』はとても面白いが、ほとんど若い俳優のエロスをどうやって発散させるかみたいな映画である。2012年頃の映画だが、最近大活躍している俳優たちが銀行の金塊を狙っているうちに、妻を亡くしたり祖国のヒットマンに殺されたり兄貴の仇をとったりして、それどころではなくなってゆくのであるが、結局、それどころではないから、それをやる必要があるのだ。それどころではない我々の生を突き詰めれば、我々は犯した罪や後悔を償うしかないのであるが、それは死を意味する。しかし生は、死を含まない目的だから死んでも死にならないはずである。

そうやって、自分の生を反省するあり方が一つ。もうひとつは、よくあることだが、人世への絶望である。例えば、大学もそうだが学校で、「そんなんじゃ社会に出て通用せんわぼけっ」という叱り方があったが、社会も学校もどうしようもなく腐敗し低レベルだとそういうのはまったく通用しない。「そんな」に意味があったから通用していたものはもはや通用しない。そうするとこの場合も、生そのものに意味があるのか、と我々は問うようになるのだ。

島田雅彦が信用に値するのは、[…]くわせものでしかあり得ない癖に、自らくわせものたることを決意しているからである。[…]真正で立派で大層なものであることを拒否する[…]決意してのインチキさによってこそ、折り返しとしてしか得られない真実の名残りを掴もうとする

――福田和也『抵抗の歌が終わり…』


島田氏の文学は、戦略が文学よりも上回ったかんじの文学で、上の学生運動の経験者たちはその戦略に認識をみたし、さしあたり意味はあった。しかし下の連中に向けては、未熟の合理化となった。島田雅彦の青二才の戦略なのか《生き方》みたいなのを、文学青年未満が真似しようとしてて、ほんと笑いが止まらなかったものである。しかもまずかったのは、彼らのコンプレックスを合理化するいろんな手を提供した連中がいた。テキスト論も文化研究もその一環として働いた側面があるのである。

インチキや未熟さは、転向よりも「真実の名残り」は少ない。こんなことで生き残ったインテリの言うことを誰が聞くというのだ。