「そなたの煎茶をのみとまる事はなるべきや。世のたのしみ、これより外はなし。酒に捨つる命、何惜しからぬ。今にも、我往生せば、沐浴も諸白をあびせ、棺桶も伊丹の四斗樽に入れ、花山か、紅葉の洞に埋まれたし。春秋の遊山人の、吸筒の滴りかかれる願ひもあり。後世さへかく思へば、まして現世にこのたのしみをやめまじき」と、なほ呑みあかし、酔ひくれて、五日七日もつづけさまにねて、世の事を外になしぬ。これをおもひとなりて、母果てらるるにも、枕をあげず、この死目にあはず、はるかの後に夢さめて、 なげくにかひぞなかりき。
「八人の猩々講」は、小学館の全集の注には、「まとまりのない」と評されている。とはいっても、この話、上の親不孝者が主張するように、とにかく酒が好きな人の話である。酒が好きすぎて、オレが死んだら棺桶は酒樽にして、酒飲みがこぼす液体を呑みたいので、そういう場所に埋めろなどと言っている。そうして大酒を食らって眠り果てていたところ、説教していた母親が死んでしまった。
けっこう纏まりのある話過ぎるところがある。酒が話題になる度に、浮世の話は単純になりがちだ。酒を飲んでいる奴に説教をするのは難しくなるからだ。三国志の桃園の誓いかなんかも酒が入っている。おまえら、ただの田舎のヤンキーのくせにいきがってんじゃねえぞ、とこの三人言う人がいなかったのか。たぶんいなかったのだろう。
とはいえ、酒で酩酊すると批判が注視されるのと同時に、酒に主体を奪われ、――人によっては攻撃性が薄れることもある。上の御仁だって、母親を殴ったりはしなかったわけで、勝手に寝てただけである。そもそも、人間はそれほど多くのことを同時に出来ない。礼儀や敬意みたいな器械的なもので、まずはよい関係を築いて同時に仕事を開始しみたいな難しい作業を軽減している。そこにはむろん無理がかかったり抑圧が生じて桎梏となることもあるが、それをやめると今度はコミュニケーションの軽減策としてハラスメント的なものの応酬になりがちになり、すべてのありうる理由付けが言い訳とみえるような厭な世界となる。こうなったらずるいやつしか生き延びられないディストピアである。もうそうなってるが。立場が弱い者と自己認識する人間が実際それほど弱い立場にはみえず、むしろハラスメントをしているように思えてくる理由がそれである。――で、こういう暴力的関係は、いまよりひどくなくても昔からあったわけで、酒がそれを少し軽減していたのはいうまでもなし。それが分からなかったのは、酒宴で殺人をやらかしたヤマトタケルみたいな変態だけだ。
そういえば、スポーツ新聞の研究ってやってみたいと高校の時思ったことがあった。うちは、中日新聞と中日スポーツと日曜版赤旗が来てた。まあ一番分かりやすかったのは、赤旗に載っている漫画だったけれども。スポーツ新聞の世界というのはとても面白い世界で、ただでも見世物化しているスポーツを更に見世物的に劇化しているのである。勢い余って、エロティックな小説まで載っけられている。きわめて平和な世界であり、中沢啓治のカープ物語によく現れているように、これは「戦後」における、戦争=暴力の昇華のやり方だったのである。
もうかなり読んでないんでうろ覚えだけど、戦前の中井正一のスポーツ論とかってなんかしっくりこなかった。浅田彰が言っていたように、ほぼファシズムという感じがする。SDGsの起源にナチスの政策なんかがちらつく事情については、藤原辰史氏が論じていることであるが、スポーツがアスリートの肉体の運動としてのスポーツになるとこりゃまたナチという感じだ。そういえば、スポーツが得意だったといわれる坂口安吾とか柄谷行人とかの文体もなんかスポーツ得意みたいな気がしない。彼らの論理の洗練をみると、スポーツに純粋的ななにかを見すぎているのではないかと思う。
落合博満氏が中日と巨人にいたときには、親会社が新聞社だから過剰に言うことに気をつけなきゃいけなかったみたいなこと言ってて気の毒だったが、競技自体もそうだけど、こういう対立物殴り合いみたいな側面がなくなると面白くはなくなるのである、見世物としては。よく言われることだけど、戦争の時の鬼畜米英みたいなものと、戦後のスポーツの見世物化=プロレス化は文化的に無関係じゃないどころかほとんど同じものなのである。巨人中日の10.8決戦なんかその最後のあれである。それを虚構として興奮出来るものが強い。それを野球漫画が支えていた。
野球のホームランというのは、観客席にボールが着弾してそれを歓喜で飲み込む観衆をテレビで眺めるというなんか主客合一的なものがある。サッカーはその合一がないので、騒ぎをもっと大きくしないと盛りあがってるきがしないんじゃないか。というか、喘息のわたくしとしては、野球の方が呼吸がしやすい感じがするだけだ。サッカーはみててずっと走ってるからこっちまで苦しくなる。そういえば、大相撲で金星とかがあると、座布団投げたりするけど、あれも別にお相撲さんを狙って投げてるわけじゃないけど、なんか主客合一という気がする。
こういう主客合一は、現実と虚構を混ぜる合一でもあって、――それこそが対立物を見失わない主体形成なのである。これに対して、純粋に主体の確立なんかをやると逆に、酒や指示の主体に主体を奪われる。