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「ウルトラセブン」でかなり後世に影響を与えたのはロボットの造形だろうと思う。もともとSFには非生物的なロボットと生物的化け物の緊張関係があったが、「ウルトラセブン」にはその緊張関係が生々しい。セブン自身はウルトラマンよりも器械的であるが、ちょんまげがナイフになって飛び回る以外は案外人間的な柔らかさをまだ持っていた。その一方で難くて強いロボットが出現して、セブン自身では倒せない。上のクレイジーゴンもキングジョーも人間の兵器と協力してやっと倒すことが出来た。
もし機関車さへしつかりしてゐれば、――それさへ機関車の自由にはならない。或機関手を或機関車へ乗らせるのは気まぐれな神々の意志によるのである。ただ大抵の機関車は兎に角全然さびはてるまで走ることを断念しない。あらゆる機関車の外見上の荘厳はそこにかがやいてゐるであらう。丁度油を塗つた鉄のやうに。……
我々はいづれも機関車である。我々の仕事は空の中に煙や火花を投げあげる外はない。土手の下を歩いてゐる人々もこの煙や火花により、機関車の走つてゐるのを知るであらう。或はとうに走つて行つてしまつた機関車のあるのを知るであらう。煙や火花は電気機関車にすれば、ただその響きに置き換へても善い。「人は皆無、仕事は全部」といふフロオベエルの言葉はこのためにわたしを動かすのである。宗教家、芸術家、社会運動家、――あらゆる機関車は彼等の軌道により、必然にどこかへ突進しなければならぬ。もつと早く、――その外に彼らのすることはない。
――芥川龍之介「機関車を見ながら」
芥川龍之介はなんのつもりか、自分を蒸気機関車だと思っていた。むろんそこには自分でレールを敷けない絶望があった。しかし、ロボットや人工知能の発達はそのことすら忘れさせる。芥川龍之介はレールを自分で敷くためには死ぬしかなく、死ぬことによって生きることにしたのだが、それにしては、作品の方も生きている感じがする。これでは、死者としての生をいきることは出来ない。そこで、空しく生きることによって死者としての生を選択する連中が芥川龍之介以降現れる。むろん、あとには何にも残っていない。