
この子、大勢の中に畏まり、申し出すこそ、恐ろしけれ。
「私の親は、ともし油売りが、肌に金子八十両付けしを、この五年あとに切つて、それより手前よくなられし。 しかもその夕暮は、雨風のして、二月九日、虫出し神鳴、 ひびき渡りし」と、正々と語れば、おのおの、肩風して、この悴が顔を、 ながめし。
「いかにも 、その頃、亀が井の谷にて、油売りを闇打ち、 色々、御穿鑿、今にしれず」と、あつて過ぎたる事を、思ひおどろ合はせて駭きける。
物に因果あり、その中に、その油売りが従弟ありて、この事を、聞きとがめ、「このままは、おかじ」と、俄に、親類を集め、内談するを聞きて、金太夫、たまりかね、科もなき女をさし殺し、己れも同じ枕の見ぐるしく、最後を取り乱しぬ。
その分に済みて、悴子はたたずむかたもなく、その日は、 我が家にありしが、暮天に、行方見えずなりにき。今に、不思議の晴れざる事。
本朝二十不孝のなかでも盛り上がりの点で出色であるこの話。生まれた子は非常に賢く大人のようだったが行灯の油などを呑むのを好む異常さを持っていた。五歳の初袴の時、みんなのいる前で、自分はこの親が殺した油売りである、と告白した。これも驚きだが、「物に因果あり」、その油売りの従弟がその場にいあわせた。親戚連中を集め、このままでは済まさぬ、と相談したので、その親(金太夫)は、妻を殺し、自分も果てた。息子は行方知れずになった。
因果応報の話とは言っても、子が親の犯罪をしゃべり出すというところは一応親不孝の反転ではあり、応報には違いないのだが、語り手が「因果応報」だと言っているのはむしろ、初袴の場に殺された人間の親戚が混じっていたことだ。因果応報というのは、なんだか知らない因果が空中を跳んでいるのではない。人間関係の広がりの中に必ず応報の因が含まれているということであった。いまだってそうである。そういえば、インターネットは、その因果応報システムのをあからさまに顕在化した。キャンセルカルチャーとか罵倒の応酬みたいなのは、その現代版である。我々は群れの中で小競り合いをしている気味の悪い生き物に過ぎない。
我々は、そもそも自分たちの醜悪さ・不気味さを誤認している。もしかしたら誤認するために犬猫を飼ったりしているのではなかろうか。映画「イノセンス」は、人形は美しいのは当然として、動物と人間がどちらが見るに耐えうるのか、みたいな問を使っていた。その動物は主として「犬」であった。しかし押井守はやはり人間に対して優しい。なぜ犬ではなくほかの動物でないのか。押井の話が、人形と動物と人間を類似性の世界に閉じ込めたい欲望の話だからである。そういえば、漱石の猫は人間をあるべきところに毛がないまるで薬罐だみたいなこといってたが、薬罐は動かない。つるつるしていてくねくね動いているところは、我々は犬猫はむろん、猿というより蛇や蚯蚓に近い。まさにこいつらを不気味に思うのはフロイト的なウムハインリッヒの世界なのである。
ウィリアム・ブクローの美しい赤ん坊の絵を見ていたらそう思ったのだ。
遠くへ行きたい。どこでもいいから遠くへ行きたい。遠くへ行けるのは、天才だけだ。(寺山修司)
蚯蚓たる我々は飛行機などに乗って遠くにゆく。寺山の言いたいことはわかるのであるが、吉本隆明はこういうタイプにもっと絶望せよと言っておかないから、孤独になったぐらいで人間になったと勘違いする輩を多く生み出してしまった。