★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

幽霊・孝行・家族

2022-11-11 22:40:14 | 文学


かかる時、旅人と見えて、馬・乗物をつらせ、用ありげにたたずみ、この老人の面影をしばらく見定め、「橋本内匠様か」と、取付きぬれば、「金弥か」と、親子の縁きれず。


「善悪の二つ車」は、不孝話としては歪な気もする。親不孝な悪友が乞食におちぶれていたところ、老人に出会い、その老人を背負って親孝行な乞食のふりをして乞食業を軌道に乗せたところ、その老人が実は落ちぶれた武士であって子に巡り会う。で、老人を大切にした方は召し抱えられ、邪険にしていた方は惨めに死ぬ。結局、親孝行をウソの上で遂行してた人間が不孝をチャラに出来たわけで、ウソに利用されていた老人にも子が現れてそれが善の執行者となっている。こうみてみると、西鶴は、孝行の虚構性を十分意識していて、それが国家の体制ともひそかに手を結び合っていたことを意識して書いているような気もしてくる。

親というのは、生きていても幽霊みたいなところがある。これを意識しすぎれば父権ということになるのかもしれない。諸井誠氏は「神話とオペラ」(『新しい大地の詩』)は、オペラにおける父権的なものと母権的なものの絡まり合いを論じている。最後の部分で、ベルカント唱法を父権的で謡が母権的と言っている。なんだか反対でもいいような気がするのだが。。。諸井氏の論考は、コンピュータ以降の文明論がかえって父権的になる、すくなくともそういうことを思いがちである予感があったようで、それへの対抗として、マーラーから始まる20世紀の芸術の母権性の獲得を否定的媒介に、自分でも日本の音楽の母権性みたいなものを打ち出そうとしていたようにみえる。しかしそれは、父権との関係において成立する、弁証法的なものだった。今の方が、どちらかが勝つみたいな馬鹿馬鹿しいことになっている。諸井氏の予感は当たった。

まだ、親不孝への意識が強烈だった時代は、親をいかにして不孝や報恩みたいな桎梏から救うか、父権母権双方の試みがあったような気がする。上の話だと、国家を支える武士が登場して商人達を律している気がする。結局、親子の関係がそれ自体「力」となりにくい我が文化の事情がある。唯一の例外が、ヤクザや学者や芸能者の親子である。

さっき、「ゴッドファーザー」を見直してみた。やっぱり美的に大傑作だったが、それにしても、この物語の「ファミリー」への執念は異常である。「パート2」のおわり辺り、食卓でマイケルが真珠湾攻撃に怒ったアメリカ市民として海軍に入ったといって、兄貴のソニーに怒られる場面、ほんとはマイケルの父親(ゴッドファーザ-)のマーロン・ブランドが出演する予定だったそうだ。この話はアメリカ国家とマフィアのファミリーの関係の話なのだからこの場面は決定的に重要である。「パート2」は、その関係が徐々に変容してしまう様を描いている。国家ではなく移民の「ファミリー」の長であるブランドが出てくれば構図ははっきりするけど、マイケルの過去の空想からなるこの雰囲気は壊れそうだ。だから、でなくてよかったかもしれない。たしか監督もそんなこと言ってた。父ブランドは幽霊だからいいのだと。

果たして論文で、重要な事項を幽霊として書かずに存在させることは可能であろうか。