★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

不孝話の偶然=必然

2022-11-16 23:23:35 | 文学


「いかに若きとて、さりとては、心なし。人の手前、世の思はく、身の程も恥ぢぬべし。 我が年は十八、嫁十六なれど、世間の思ひやりありて、あのごとく、身を捨てて、内証を隠し、親里へも、これをしらせず、かかる前後を、凌がるるは、女の鑑にも、木々までしらすべき、最愛き人なり。いまだこの春縁組して、半年も立つやたたぬに、衣類・敷銀・手道具までをなくして、嫁なればとて、面目なし。我とあの人がやうに、心ざしも、かはる物か」と、いひもはてぬに、娘は、履きたる雪踏を親になげ付け、不断の寝間に行くを、母も、今は堪忍ならず、手元にありし爪切持って立たれしを、嫁、懐きとめて、潮々に、これを詫済まして、片陰に立ち忍び


様々な不孝話があり、まったく偶然の話とは思えない。つまりそれらはいつも繰り返す話として書かれているのであろうが、現実には偶然によって生じたとしか思えないのである。だから、おなじことを繰り返すのも偶然だと言っているだけでは人間にとっての説明になっていない。不孝話もどことなく因果応報の話である。――我々は何の因果かと思うけれども、何の宿命かと思う恐ろしさから逃避していると考えれば、むかしからそれを我々を繰り返してきたんだなと思われる。因果を科学とか統計とか言い換えてもかまわない。

先日「小説神髄」を読みなおしてたら、それが「欧土の小説を凌駕」するぞみたいな宣言を持っていたことを忘れてたな。。。凌駕するというのは、同じ事は繰り返さないと言っているに等しいが、果たしてこういう認識はどんな状況で生じてくるのであろうか。

今年の歳末にその天野君と落合太郎君と私とで寒い晩に四条通の喫茶店へ茶を飲みに行ったことがある。給仕の少女に九鬼は紅茶とビスケットをくれないかといった。ビスケットってクッキーのことですかと少女が尋ねた。九鬼は「クッキーなら貰わないでもこっちから上げるよ」といって笑ったが、何かしら胸にグキット感じた。ビスケットという古い言葉がクッキーという新しい言葉に代ってしまっているのを初めて知って、自分の住んでいる古い世界と少女の住んでいる新しい世界との間隔に軽い目まいを感じたのである。これはクキがクッキーでグキットした話である。
 この二つの場合で、クキがクッキーでグキットしたとはいいやすいが、アマノがアマゴとアナゴを間違えたといおうとするとうまく口が廻らないで多少の努力を要する。前者は同一性に基くものとして単に量的関係に還元され得るのに反して、後者は類似性の基礎に質的関係を予想しているためであろう。


――九鬼周造「偶然の生んだ駄洒落」


どうでもいいけれども、九鬼は天野や落合と喫茶店に行ったことの方を考察すべきである。