★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

教育と修養

2022-11-10 23:20:51 | 文学


「出て行かれる路は一つしかない。」
「と云ふのは?」
「それはお前さんのここへ来た路だ。」
 僕はこの答を聞いた時になぜか身の毛がよだちました。
「その路が生憎見つからないのです。」
 年をとつた河童は水々しい目にぢつと僕の顔を見つめました。それからやつと体を起し、部屋の隅へ歩み寄ると、天井からそこに下つてゐた一本の綱を引きました。すると今まで気のつかなかつた天窓が一つ開きました。その又円い天窓の外には松や檜が枝を張つた向うに大空が青あをと晴れ渡つてゐます。いや、大きい鏃に似た槍ヶ岳の峯も聳えてゐます。僕は飛行機を見た子供のやうに実際飛び上つて喜びました。
「さあ、あすこから出て行くが好い。」
 年をとつた河童はかう言ひながら、さつきの綱を指さしました。今まで僕の綱と思つてゐたのは実は綱梯子に出来てゐたのです。
「ではあすこから出さして貰ひます。」
「唯わたしは前以て言ふがね。出て行つて後悔しないやうに。」
「大丈夫です。僕は後悔などはしません。」
 僕はかう返事をするが早いか、もう綱梯子を攀ぢ登つてゐました。年をとつた河童の頭の皿を遥か下に眺めながら。


――「河童」


芥川龍之介は河童に恐怖を抱く面白いひとであるので、変化には基本的に耐えられないタイプであろう。これに比べると、「第百階級」みたいないい加減な数の増殖を押し立ててみせる詩人なんかが長生きしたのは当然だ。草野心平の「憧れの万里の長城」という文章、暴君と人民の労働は大変なもんだみたいな平板なこと言ってると思いきや、最後の最後に来て、万里の長城で女医師の李さんに腕をかしたりした、みたいな記述でしめるところがさすがであった。

しかし、こういう感じの人間はいなくなったかもしれない。品格とエロスが同時に存在しているような人間である。これは「蒲団」のようなものの変形としてありうるのである。それは理念化すれば透谷の内部生命とか言わなくちゃならないのかも知れない。そのときある種の論理的流れが、文の連なりの奧にもう一つあるような文章がやはりすごいわけだが、――もうなかなかそういう書き手は少ない。

これに対して、とにかく表象を大事にしたいタイプが戦後では威張っていた。田辺聖子の「女王卑弥呼」なんかを読んだけど、けっこう読ませる。この「読ませる」というやつ、表象の力なのである。こういう場合、作家の思想はイデオロギー化しやすい。フェミニストの台頭には、こういう事情も不幸も孕んでいたところがある。

昨日からネットの一部では、大学の研究者は文系学部生に教育に向いてない、みたいな経済評論家の記事が話題になっていた。「大学の授業が退屈」みたいなイメージを使った、それってイメージですよね、みたいな文章であったが、――確かにそういうイメージは考えなくても出てくるものだとはいえ、現実にはそこには大学教師の個人的な「個」に対する無数の不満や異論や違和感や、あるいは学生の能力やなにやらが絡まり合っている。その絡まりは、大学の授業が退屈ではなく刺激的だと言っても当てはまってしまうような内実を持っている。もともと、教育の内実を観察すること自体が難しいのだ。自分が教育に向いていると思っている教師がいたらまだ学生かちょっと呆けてきたのかどちらかだ。

わたしは大学院に至るまでごく一部の演習を除いてたいがい授業というものは難しくて眠かったものもあったし、容易すぎて退屈だったものも多かった気もするのだが、――自分で行う授業は塾でも高校でも大学でも大概楽しい。わかったぞ、学生が授業をやればいいんだ。おれは向いてないから代わりにやればいいのではっ。ちなみにそれは反転授業などというつまらんものではない。そんな反転を行ったら学生たる俺がまた主導権を握って楽しく喋ってしまうではないか。

ちなみに、確かに大学の授業が一部つまらないことはたしかである。理由としては、――講義者本人がつまらない人間である。つまらない研究をしてるので面白くも何ともない。講義内容が端的に間違っている。何かに操られているとしかおもえない。俺の知らないことを喋っている(New)。受講生の精神と頭がエトセトラなど様々である。独創性を少しは目指す大学の授業だから、よけいそういう水準からみたつまらなさも発生するし、意味不明さも発生しよう。

で、そうだからといって、大学を道具として扱い、目的に従属させれば退屈でなくなるのか。しかし、語学学校や予備校、専門学校の授業は実用的な目的がはっきりしているから授業は退屈でなくなってるみたいな現実が果たしてあるのであろうか。一度、そういうところの教壇に立ってみてくれよ、当然だけどとっても大変に決まっている。教員としての知性とは何かみたいな問題だってそもそも解決済みの問題ではない。様々なひとが研究中なのである。教育に対する研究が難しいのは、不都合な側面を修正すること以上に、果たして普通運転の状態とされているものを維持出来るのかというものすごく手間のかかることを強いられるからだ。大学の教育だって本当はそうなのである。

戦前の世界だって、一応試行錯誤はあったのだ。先日、大澤絢子氏の『「修養」の日本近代』をざっと読んだ。修養には《宗教っぽいもの》からいろいろなものが修身などに対立して詰め込まれたが、これは案外教養教育に近い機能を持っているのかもれん。松下幸之助のなんとかとかがありがられたり、大企業の親玉が新興宗教に嵌まったりするのはそのせいであろう。教養教育、いや「修養」は実学なのだ。――思い切って大学の共通科目を「修養」とすれば、役に立つことやろうマインドと哲学宗教も知っとけマインドを結合出来るのではないだろうか。冗談です。