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「御前は、どう云ふものか、誠実と熱心が欠けてゐる様だ。それぢや不可ん。だから何にも出来ないんだ」
「誠実も熱心もあるんですが、たゞ人事上に応用出来ないんです」
「何う云ふ訳で」
代助は又返答に窮した。代助の考によると、誠実だらうが、熱心だらうが、自分が出来合の奴を胸に蓄はへてゐるんぢやなくつて、石と鉄と触れて火花の出る様に、相手次第で摩擦の具合がうまく行けば、当事者二人の間に起るべき現象である。自分の有する性質と云ふよりは寧ろ精神の交換作用である。だから相手が悪くつては起り様がない。
「御父さんは論語だの、王陽明だのといふ、金の延金を呑んで入らつしやるから、左様いふ事を仰しやるんでせう」
「金の延金とは」
――「それから」
このまえに、代助の親父の頭の上に『中庸』の「誠者天之道也」の額が掛かっている描写がある。内容もそうだが、第一に字が嫌だ、とある。親父はどこかの藩主からもらったらしい。いまでも、どこぞの藩主やら資本家の書いたへたくそな字をありがたがっている御仁はいる。字がめずらしかった時代は、その字自体が天の作用を示すようであったのかもしれないが、いまはほんとに美しくないとその機能を果たせなくなってしまった。学校の先生の権威も墜ちる訳である。
それにしても、漱石がわざわざ「中庸」を引いたのは訳があってのことであろう。わたくしは寝物語のかわりに四書をおおざっぱに読んできた訳だが、一番つまらないのが中庸である。論語にあった、悪口大会みたいな側面が脱落し、エラそうな調子が鼻につく。代助もつられて、なにか批判的精神を俗っぽくしてしまっているのではあるまいか。しかしそれでも、彼は結局天道之道から外れた?かわりに、お天道様に焼かれるように町に追い出された。近代文学の高踏遊民は、いずれほんとの遊民となる運命だ。
四書五経的な天道の支配が終わり、なにもない社会で、学生は空気を読んでるだけ――みたいな批判があるけれども、社会人もたいがい現代で管理職的な立場になりゃ空気読むようになるだろう。昔の先生や親父やリーダーにみたいにだれかが乱暴に秩序維持をやらなくなると、全員でそれを代替しはじめるのだ。