今、所謂文学と所謂科学とのこの交錯に於て問題になるものは、アマチュアとディレッタントの問題であることを見落してはならぬ。夫々の領域に於ける専門家は、他の領域に対してはアマチュアとしての資格しか有たないのが普通であるが、二つの領域の間に以上のような交錯がある場合には、アマチュアも亦一つの機能を果すことが出来る。文学に於てはその科学的意義を、科学に於てはその文学的意義を、最も手取り早く要領よく見透すことの出来るのは、却って、優れたアマチュアの特権であるようにさえ見える。ディレッタントはアマチュアと異って一種の専門家と考えていいだろう。ただその専門家たるや、一定の専門領域に限定されず、且つ又どの専門領域に於ても完全に組織的な専門家ではない、というのを特色とする。従って各種の専門領域のディレッタントによる断片的な専門的知識が、偶々夫々の専門領域の根本的な本質的な知識であれば、それを結合しているディレッタントの知識は、必要な統一を探究するのに最も手近な入口を持っていることになるわけで、問題が科学ならば、世界観的・文学的統一に到着することがそれだけ早くなるわけだし、もし問題が文学ならば、文学と科学とのコンジェニアルな点に逸早く気づく可能性が多いわけである。だが恐らくジャーナリストという言葉が一等適当ではないかと考えるが。
――戸坂潤「思想としての文学」
長野県は、古くは白樺派、京都学派をよびつけて勉強会を戦時下においても行っていたことで有名である。三木とか戸坂も行った。この哲学の田舎での発酵も面白いが、とくに民俗学は自らが対象でも研究主体でもあった。戸坂の言うように、アマチュアリズムは科学と文学を架橋するジャーナリズムであり、その実、田舎ではディレッタントで居続けることが同調圧力上難しいために、個々の田舎の知識人たちはどちらかというと人文学者でも科学者の風貌をもっていた気がする。わたくしの祖父がそうであった。国語の先生なのに、自分の家を「経営研究所」と名乗って自らを位置づけた。これはアマチュアリズムの動きであって、ここから子孫に何人かアカデミシャンがでてきたとしても起源の性質はたぶん異なるのである。
県内郷土誌が存続の岐路に 会員減、解散…歴史や民俗研究衰退の恐れ (
https://www.chunichi.co.jp/article/596434)
郷土誌をささえていたのが誰だったのか研究はこれから必要だと思うが、――私の育った環境においては、その担い手は明らかに少数の小中学校の先生を中心としていた。おそらく、客観的に平たく言うならば、国をはじめとした日本社会が小中学校の先生を「先生マシーン」にしてこういう文化をいじめてつぶしたのである。しかし、事態はもう少し入り組んでいる。まず、つぶされたという以前に、人が居なくなったというのがある。前にも書いたが、彼らの教え子たちが偏差値で輪切りにされて都会の大学に進学した(させられた)のも大きい。その理由としては、就職がないというのもあるが、田舎を因習のかたまりのように認識させてしまった戦後の大きな思想的流れもまずかった。習ってもいないのに、講座派みたいな考え方をする大人も多かったのである。
またそもそも、郷土誌を支えていた世代があったとして、それは柳田や折口の地方での調査と啓蒙活動の衝撃を直接に受け止めた結果にすぎない部分も大きい気がする。戦前に実際、柳田や折口の薫陶を受けた小中学校の先生は多かったからである。だから、原因は戦後の経済・教育の趨勢だけではない。そのおかげか、先生の影響を少しは受け継いでいる、わたしの父の世代もよくわからんが教師の義務みたいな感じで『長野県史』をずっと買ってたひとは多いはずである。読んでたのは父ではなくわしだった可能性はあるが、それでよいのである。長野県史』は重いしスペースはとるしで大変なわけだが、置いときゃ誰かが読む。そのほか、『信濃教育』、『信州白樺』や『とうげの旗』にだって教師の中にアンチは常にいたが、ちゃんと購読している教師たちがある程度いたから続いていたに違いない。書く人の世代だけで支えられていたのではなく、なにかみんなまだ引っかかるものを感じていた。これが直接教えを受けると言うことの意味である。
もちろん、学部出の先生には手に負えないレベルに研究が上昇し、資料も博捜し尽くされたかにみえる現状も手伝った。しかしまあ、素人の感想だが、――近代以前の昔の研究も必要だが、戦後の田舎の観光地化のプロセスはきちんと誰かが記録をとっておく必要がある。とにかく、戦後においてつくられた「過去」がそれ以前の「近代化」の痕跡すら消してしまっていて、これからますますわけわかんなくなってゆく可能性があると思う。現に我々が失いつつあるのは、「近代」であり、これは思想的な啓蒙としての意味においてもまずいと思うけれども、それよりも日本の過去の実態が消されつつあるという意味でまずい。地元の歴史をたどるものがいなくなると、地方の近代化の実態の説明はつかなくなるかもしれない。そうなれば愛郷心どころの話ではなく、「美しい日本」みたいな馬鹿みたいなものになってしまう。観光化が進むと、ほんとのことを調査しづらくなったという原因もあったように思う。過去はいいことばかりではない。嘘はいけねえよという近代的なコモンセンスが失われている場合は郷土研究は本当にやりづらくなる。しかもそれは内容的にあんまり軽く考えられない事柄を含んでいる可能性があって、もともと手をつけがたいというのはあるのだ。すなわち、田舎にとって調べたくない時代があるというのは結構大きい。すくなくともわたしは、映画Das schreckliche Mädchen で描かれたような、田舎の戦争犯罪の件を他人事とは思えない。
問題は、地方が衰退したという現状が何を意味しているかである。第一に奴隷状態の復活である。大学の教師に限らず、本質的な研究や批評は、精神的な奴隷状態になったら実行不可能である。最近、大学に限らず学術を頑張ってる割に成果が出なくなったのは、精神的に奴隷状態にあるからである。金の問題もあるがそれよりもこれが大きい。権力の奴隷になったのもあるが、お客の奴隷になっているのは大きい。第二に、おなじことであるが、人間を扱うときの抽象化である。戦後の民俗学は柳田を引くまでもなく民主主義と同義だった。民主主義というのは人間だけでやるもんではなくて、その地域の歴史とか地元作家の童話とか小学生の作文とか鳥とか昆虫の生態とかのすべてでやるものなのである。それを無視して、人間の意識をコントロールするみたいな発想になってる時点でおわっとる――そういうのをファシズムというのだ。田舎の馬鹿がファシズムでは暗躍しているようにもみえるし、実際そういうことは起こっているが、やはり本質は都会での人間の抽象化が原因だ。
過度の軽蔑はほとんど恐怖とはかはりがない。(三島由紀夫「青の時代」)
ファシズムは、特定の「人間」を抽象しそれ以外を捨象=軽蔑し、すなわち恐怖することによって発生する。地域や文芸を研究する人間なんかもその一つである。研究や創作をする教師に対しては「あの先生は自分の趣味に熱中して教育しない」という声が、戦後かなり根強く広くあったと思う。職域奉公への意識が我々を未だ縛り付けているからであった。それは、保護者からも同僚の教師からもあって、徐々に教員の人事にさえ少しは影響を与えたのではないかと思う。子どもの進学や就職といったものを理由に教育に専念することを求められていったわけである。これがいまや大学の教師に対して行われている。確かに、小中学校にいた研究をする先生にもいろいろいて、ほんとに子どもに興味が無さそうなひともいたと思うが、むろん、本当にやる気のない教員というのはほかにいて、――すべてにいい加減で出世しか考えてないような教員だ。でもそういう人間のやる気のなさを批判するより、研究のために教育がおろそかだと理屈をくっつける方がはるかに楽だったにすぎない。われわれは、しばしば、理由をつけやすさを正義と混同する。
たぶんいまの教員養成学部のあり方だと、仮に教師に余裕とやる気が戻っても、郷土史や地域の文芸活動にコミットメントする力自体がなくなっている可能性が高い。だから、われわれはつい、忙しさを理由にしたがるが、本質はそれだけではない。授業というと条件反射よりも素早くグループワークやってしまうことを全否定するもんじゃないが、それを実習からやらされていると、ほんとに教える学識そのものがないことが露呈しないで教師になってしまう可能性がある、というか現にそうなっているのではなかろうか。採用試験で悪貨を駆逐できる可能性は低い。近代を超克しようとしたら頭の悪い帝国主義になりましたみたいな、いつものパターンじゃねえかこりゃ。
そういえば、アマチュアといえば、――わたしはアマチュア楽団のコンサートに行くのが好きで、さっきもうちの大学合唱団の定期を聞きに行ってきた。コンサートホールでの演奏は人類が作った最高の文化の一つである。文学でも研究でも音楽でもそうだが、アマチュアリズムの良さというものがあって、それはプロのような職能集団とは別の価値がある。思うに、ネット社会で社会が全体化してから、こういうアマチュアリズムもかなり衰退した。全体が職業的人間の口調になっている。郷土誌を作ってた小中高の学校の先生やアマチュアの研究者なんかも独自の価値を生み出していたところがあったと思うけど、これがなんか、いつのまにか学会の下部組織みたいになっちゃったところがないであろうか。わたしが小中の先生の活動にこだわるのは、高校の先生というのは、実際アカデミズムに今も昔も属している場合があるけれども、小中の学術活動というのはまた別の意味を持っていたと思うからである。私の田舎の木曽なんかは、実際小中学校の先生が「知識人」だった場合がおおかった。もうこれを再現することはなかなか難しいだろうが、それは頭のいいのが信州大学に行かなくなったからではなく、アマチュアリズムの衰退という趨勢にも関係があろうということである。
そういえば、学生からはデレッタンティズムも消えかかっている。たぶん、オタクが迫害されているうちにそれも一緒に虫の息なのだろう。
こんな状態でいったいどうすればよいのか。私としては、戦後の世界への見方からさしあたり変更してみようと考えている。
学生運動は一種の「戦争」だったと言った(略)上野千鶴子氏は、全共闘運動をはじめとする自世代の体験を、兄たちや父たちの体験と重ねあわせて理解し納得している。つまり上野氏らは、自分たちの経験を語る物語や観念を作らなかったのだ。
――福田和也『「内なる」近代の超克』
そうではなく、先の戦争が終わったのは連合赤軍事件あたりでそこまでは長い敗戦のプロセスなんじゃないかと思うのだ。全共闘は敗戦処理の戦争をやっていたに過ぎない。そしてその敗戦のプロセスにしか平和らしさ?はないんじゃないかとも思う。三島由紀夫の自決もある意味敗戦に間に合ったのである。民俗学も近代文学も地方に伸びていった文化の戦争だった。文化の戦争は武力のそれよりも長びくから、やっとその戦争が終わりかけている。先に戦争犯罪と述べたが、そういうものを含めて反省し、新たな文化戦争の時代をつくるのである。