なあむ

やどかり和尚の考えたこと

自らの価値観を持て

2015年03月07日 20時17分30秒 | ふと、考えた
人が大勢集まることがいいことではないだろう。
同じ意見の人が大勢いることがいいことでもないだろう。
なぜ集まりたがるのか。なぜ同調したがるのか。
みんなと同じだと「変わった人」と思われないから安心するのか。
考える必要がないから楽なのか。

最近の酒蔵は「ただの酒」だけでは売れない時代だから、どこもみんな頑張っていい酒を造っている。
それぞれの好みにあえば極上の味を味わうことができるいい時代だ。
今売れている銘柄はあるけれど、それが特別旨いのかと言われればどうだろうか。
その程度の酒は本当にたくさん存在する。
ではなぜ、一つの酒だけが人気なのか。
それは、旨いという判断ができない人が、他人が旨いと言っているものを自分の判断にしてしまうからだろう。
自分が旨いと思ったものが旨い酒なので、それに素直に従えばいいのに、自分の価値観を他人に委ねていることが問題なのだと思う。

都会に集まる人も同じではないか。
みんなと同じ価値観で、みんなに合せて、みんなと同じことをしていれば安心だというのは、あまりにも空しくはないか。
自分の舌で、自分の好みで判断する価値観。それが弱くなっていないか。

田舎が都会のマネをしてどうする。
都会には都会にしかない価値があり、田舎には田舎にしかない価値がある。比べられるものではない。
田舎に大勢人を集めようとするのは経済的な価値のためか。
都会のマネをするならそれは都会の価値観だろう。
田舎に住む人が、田舎の価値を感じるような価値観をもつことが先決ではないか。
それは何か。

放っておけばすぐに草ボウボウとなる自然の力の強い土地。
種をまけば植物が育つ。放っておけば勝手に木が伸びる山々。それは燃料となる。
雪は必ず融けて必ず春がやってくる。その美しさ。
広大な土地、湧き出ずる水と温泉。
それでも学校はあり病院はある。
線路があり国道がある。
世界の情勢が知りたければテレビでもインターネットでも知ることができる。
選挙権があり、銃を持たされる恐怖はなく。
子どもが売られることも、自由が束縛されることもない。
これ以上何が必要なのか。

誰かと比べて価値観をもつのはやめよう。無駄であり無意味だ。
自分の舌で旨いものを旨いと思う価値観を育てていこう。
この土地には縄文時代から人が住み続けてきた。
人が生きるには充分な自然があったからだろう。
明治10年の最上町の人口は今の半分4613人だった。
人が少なくなれば少なくなったように生きればいい。
そこに価値観を見いださなければ、子どもたちがここで生きることを選択することはないだろう。
都会の人が田舎で暮らすのは大変だろう、しかしそれが都会の勝ちではない。
田舎の人間は都会では暮らしにくいだろう、しかしそれは田舎の負けではない。
それぞれにあった場所で生きるのがいいのであり、自分の住む場所を「ここぐらいいい所はない」と思えることが勝ちに違いない。
ここに住む人々が自ら勝ち組になれればいい。
経済的格差を人や土地の価値的格差と錯覚してはならない。
自らの生き方を他人の価値観に委ねてはならない。


この日だけ?

2015年03月06日 17時59分01秒 | ふと、考えた
この日が近づいてくると、関連ニュースが増えてくる。
そりゃ、全く思い出さないよりも、一年に一日でも思い出した方がいいとは思う。
しかし、ブームのように思い出し、過ぎれば忘れてもかまわないようなことでは困る。
クリスマスなら誕生日は一日だけだから、それでも充分なのだろうが、被災地は毎日が被災状態なので、クリスマスの次の日の寂しさは際立つことだろう。
「もう被災地とは呼ばないで」「いつまでも被災者ではいられない」という人もいる。
確かにその通りとも思う。自らの力で立ち上がれる人はどんどん立ち上がっていくだろう。そう願いたい。
「支援に依存しすぎてなかなか抜けられなくなる」と危惧する人もいる。そういうこともあるかもしれない。
しかし、それらを全ての人に当てはめてはいけない。
強い人たちの例を全てと思い、支援の必要なしと思い込まれてしまうことで取り残される人々の苦しみを見過ごしてはならない。
外から見れば、「被災地」という一かたまりかもしれないが、そこで暮らす人々にとってはその人その人、一人ひとりの被災であり、一人ひとりの苦しみがある。
全体を見て支援が必要かどうかを考えるのではなく、一人ひとりの事情に寄り添うべきだ。
なので、一人が全体をなんて無理なので、一人が一人を支えるような支援が必要なのだと思う。
情報をたぐり寄せていけば、自分にあった支援のかたちがきっと見つかるはずだから、親戚や友だちみたいに、毎日の息づかいが感じられるような、ぜひそのような支援をお願いしたい。

「支縁」とは共感すること、共感する力「共感力」は想像力。
想像力の弱い人間はおおむね自己中心的。
自己中心的な人は心が貧しい。
喜びや悲しみを共有できる人を豊かな人と、私は思っている。

被災は一日だけではない、毎日が被災地だ。

親、福島、沖縄

2015年03月01日 19時28分10秒 | ふと、考えた
雪国には老人が多い。
80を過ぎた老夫婦、あるいは独居老人。
腰を曲げて、舐めるように雪を片付けている。
スノーダンプを押しているのか、つかまっているのかわからない。
スコップは時々杖になる。
子どもたちがいないわけではない。
みんな他所へ出て行ってしまった。
雪国がどんなに大変かは十分知っている子どもたちだ。
だけど、ここでは暮らさない。
仕事がない、仕事が終わっても今さら帰れない。
遠くで親のことを考えているのか。考えまいとしているのか。
親が都会で暮らせないことも知っている。
親が死んでしまったら故郷はなくなるのだろうと思う。
それでも帰れない。考えないようにしている。
都会は都会で大変だ。それでも何とか生きていかなければならない。
親のことは心配ではあるが、どうしようもない。
どこかで、亡くなってくれたら楽だろうと考えることもある。
苦労している人のことは早く忘れた方がいい。

原発事故地もこれと同じような構造か。
苦労しているのは知っている。
だけど、自分にも生活がある。
そんなことばかり考えていたら疲れてしまう。
楽しいことも考えなけりゃ生きていけない。
福島が嫌なら他所で暮らせばいいんじゃないですか。
原発が原因であることは知っているけど、経済のためには必要なんじゃないですか。
多少の犠牲はしかたないでしょ。
国全体が福島のことばかり考えていられない。
早く忘れた方がいい。

同じことは沖縄にも言えるのか。
沖縄の人の気持ちはわかる。
だけど、国全体を考えれば、近隣の緊張はあるし。
アメリカの後ろ盾がなければ危ないし。
基地は必要なんだから、どこかが引き受けなければ。
沖縄は、これまでもあったのだし、それなりのお金ももらっていたんでしょ。
サンゴがどうのって、サンゴと国とどっちがだいじなのって話。
色々考えても沖縄しかないよね。
他はみんな反対するでしょ。
私のところはダメよ。

みんな、嫌なことはひとに押しつけてばかり。
自分に害が及ぼさなけりゃ他人の犠牲はしかたないと思う。
苦しむひとを見て見ぬ振りをして、早く問題が消えてくれればいいと思っている。
構造はみな同じではないか。
老親の涙、福島の涙、沖縄の涙。
震災直後の「慈悲深い人々」はどこに消えた。
同じ自分の中で、慈悲が消えたか。
そんなもんだとうそぶいているか。
問題は「人」ではない「慣れ」だ。
慣れを打破するのは現場に帰ることだ。
故郷に帰れ、福島に立ってみろ、沖縄に行ってみろ。
親の曲がった背中をさすり、福島の人々と同じ場所に立ち、沖縄の人々の声を耳で聞く。
そうしなければわからないのだろう、忘れてしまうのだろう。

我々にひとの痛みはわからない。
隣のひとが腹が痛くても、自分はちっとも痛くない。
だけど、痛いひとの声を聞き、様子を見て感じることはあるはずだ。
どのくらい痛いのだろう、あんなぐらいかこんなぐらいか。
共感力とは想像力だ。
想像力がとても強いひとは、遠くにいても声を聞かず姿を見なくても痛みがわかるかもしれない。お釈迦様もそうだったろう。
でも、弱い人も、側に寄れば想像できるはず。人間だもの。

大丈夫か中学生

2015年02月16日 21時43分08秒 | ふと、考えた
1年生と3年生の違いなのか、あるいは学校全体の違いなのか、たまたまその学年のことなのか。
今日話をさせてもらった中学1年生91名の様子は、あまりにも幼稚だった。
先日の中学3年生の感想文に感動して、瑞々しい中学生にもっともっと話したいと思って意気込んで臨んだ。
1年間総合学習で環境問題を学んできた学年だというので、環境の問題に触れながら、世界の厳しい環境に生きる子どもたちのこと、豊かさとは何か、自分の時間、などについて自分なりに力を入れて語ったつもりだった。
しかし、目の前で最初から最後まで隣の子とふざけている生徒、話が始まってもザワザワと騒々しい小学生のような雰囲気。これで中学生として1年間過ごしてきた結果なんだろうか。
3クラスで、クラスによっても違うとのことだったが、こんな様子で毎日授業が進んでいるのだろうか。それは先生は大変だろう。しかし、先生方に問題はないのだろうか。
生徒に自主性をもたせるということか進行や前後の挨拶も生徒が行っていたが、外部の講師を招いての講義にもう少し緊張感をもたせたらどうなのだろうか。
到着時間がギリギリになってしまい急いで玄関に入っていったが、迎えてくれる人がいるわけでもなく、スリッパが用意されているわけでもなく、どこに行っていいのやら、事務員に尋ねると職員室にどうぞと、職員室がどこかもわからない。
職員室から校長室に通され、時間が過ぎたのに「迎えが来るので待ってください」と。
限られた時間で精一杯伝えたいと思っているのに出鼻がくじかれた。
そのあたりから、これはちょっとおかしいなと予感があった。
わざわざ外来の講師を呼んで、子どもたちに何を聴かせようと思っているのか。
先生方の向き合い方がそのまま生徒の態度に表れていると思わざるを得なかった。
中学2年になろうとする年頃は、将来の生き方を方向付ける決定的な出会いがあるような柔軟な時代だろう。
そんな子どもたちをどう導いていこうとしているのか。他人事のように傍観しているような様子では子どもたちがかわいそうではないか。
最後に主任の先生が「講師の先生がみなさんの態度をどのように見られたのかとても心配です」と怒りを抑えて語ってくれて、少し救われたような気がしたが、それでも、そうならば始まりの時からそのような緊張感で進めればよかったのではないか。

いずれにせよ、これが現実だとすれば、この国の未来はどうなってしまうのだろうか。こんなに子どもっぽい13歳は世界中どこを探してもいないのではないだろうか。心から不安になってしまった。

中学生の感想文

2015年02月12日 17時38分54秒 | ふと、考えた
昨年12月に、河北中学校3年生対象の「進路講話」というのに呼ばれて話をしてきたことは先に触れました。
その感想文をいただきながら、ある忘年会で受け取ったため、そのまま人に「読んでみて」と預けていました。
ようやく手元に返ってきて、読み返してみました。酔った頭で読んだ時にはいたく感動して人に貸したわけだが、冷めた頭で読んでみれば、感動というほどでもないか、という感じです。
ただ、話をよく聴いてくれたんだということは伝わる内容ばかりでした(そういう感想文を選んで渡してくれたのだと思いますが)。
その中から一人の感想文を紹介します。

私は三部義道さんのお話を聞いて、自分の命がとても大事なことが改めてわかしました。
「命の所有権はないが、使用権はある」という言葉にとても感動しました。
自分の時間をどのように使い、どのように考えるかで人生は変わっていくのだと思いました。
また、子どもを売っている国があると聞いてとてもびっくりしたし、悲しくなりました。
1年間で約10万人の子どもが売買されているのはとてもおどろきました。
日本はとても幸せな国だと実感しました。
私たちは、勉強もでき、ご飯も食べることができ、住む家もあることが、どれだけ幸せなことか改めてわかりました。
自分の命を大事にして、周りのことも考えて生活していきたいと思います。
また、朝起きたらすぐに顔を洗う習慣もつけていきたいです。
三部さんのお話を聞くことができて本当によかったです。

こういう感想をいただくと、話してよかったなと思います。
どんな大人になるのかの方向が少し見えてきたら、まさに進路講話だったかもしれません。
来週には新庄の中学校で講話の時間をいただいています。


赤目のかど

2015年02月06日 14時38分06秒 | ふと、考えた
「かど売っでだげど、目が赤ぐないがら買うのやめだ」と母親が言った。
「かど」はニシンのこと、新鮮なニシンは目が赤いそうで、「目が赤いのはうまそう」なのだそうだ。
東北ではニシンを古くから「かど」と呼んできた。
昔はずいぶん穫れて、2月~3月に新かどが出回ると、箱買いをして軒先に吊していた。川原などで炭火で焼いて食べる「かどやき」は春を迎えた喜びとして風物詩ともなっていた。らしい。
その時に、新鮮なものを選ぼうと目の赤さを見たというわけだ。
その後、余市の熊さんではないが、乱獲のせいかニシンは激減していった。ニシン御殿もさびれて「石狩挽歌」の歌詞となった。
「かど」は和名、「ニシン」はアイヌ語。
元々東北、北海道でよく穫れて、それぞれ呼び名が違っていた。
それがなぜ日本の多くの地域で「かど」ではなく「ニシン」と呼ばれているのか。
北海道で大量に穫れたニシンは、はらわたを取って脂を搾った後、俵に詰めて肥料として北前船で近畿に運ばれた。
その肥料で瀬戸内を中心に綿花栽培が盛んに行われ、木綿が生産され着物が織られた。
それまでの日本人の着物は、貴族・豪族の絹かそれ以外は麻がほとんどで、冬の寒さを凌ぐのが難儀だった。
一般人にも手が届く木綿の着物で冬を越すことが容易になったことから、人口が爆発的に増えていった、という話を読んだことがある。
近畿に運ばれたニシンの中には、肥料ばかりでなく、はらわたを取って乾燥した状態で運ばれてくるものもあった、それが「身欠きニシン」だ。これが食べ物として、京ではニシン蕎麦などとして広まっていった。
近畿から西へ、そして関東へと北上して全国的に「ニシン」が通称となり、「かど」が残ったのは東北だけということになった。
しかし、その一部分によって「かど」の名は全国的にかろうじて広まり残ることになった。
それは「数の子」。つまり「かどの子」なのだ。
なぜニシンの子は「かどの子」として広まったのか。
これは私の勝手な推測だが、北海道で穫れたニシンはほとんどが肥料として「輸出」されたもので、卵も含めて内臓を食べるという習慣がなかったのではないか(アイヌの人々にもその習慣はなかったのではないか)。あるいは貯蔵技術が確立されておらず、運搬には向かなかったのかもしれない。
陸奥の国では、かどは大事な食料で、身はもちろん、内臓まできれいに食べたのではなかったか。特にかどの子は、きれいな色とその食感で、珍味として食べられていたのだと推測する。
それが珍味「かどの子」として独立して江戸まで南下して行ったのではなかったか。
ニシンは船で南へ、数の子は陸で南へ。
運搬方法によって名前の伝搬も違ってきたもののような気がする。

新かどが出回る頃らしい。母親の眼鏡にかなう赤目のかどが見つかるか。

体温の不思議

2015年01月28日 06時50分41秒 | ふと、考えた
この世の中の物質は、4つの要素が縁によってくっついたり離れたりして成り立っている、というのが仏教の考え方だ。
4つとは「地」「水」「火」「風」で、これを「四大」と呼ぶ。それが「仮和合(けわごう)」つまり、因縁という接着剤で、仮に集まったものが形となっている、と。
人間の体も仮和合の形で、骨格(地―堅さ)、体液(水―湿り気)、体温(火―熱)、呼吸(風―動き)が集まったもの。
そのバランスがくずれた様子を「四大不調」といい、病気であることを指す。因みに因縁がほどけて和合が解消されたことを「四大遠離」といって死亡を表す。
元々、4つの要素にはそれぞれに主体はなく―「空」、それが集まってくっついているのは全て因縁による。その姿を表しているのが四大に「空」を加えた「五大」で、それを形で現したのが「五輪塔」、それがお釈迦様の遺骨を納めた舎利塔―ストゥーパで、それが卒塔婆になり塔婆となった。
それはどうでもいいのだがついつい書いてしまった。
で、不思議だなと思ったのは、熱―体温のこと。
人間の体温は、ほとんど35~37度の3度内にあるだろう。その外は病気と判断されるだろう。
しかし、人間の生活する外気は、それこそマイナス40度~プラス40度ぐらいの100度差の中にある。
たとえば、冬に雪国から東南アジアなどの熱帯地域に旅行した場合、マイナス10度の世界からプラス40度の世界へと、一気に50度差を体験することもある。もちろん途中で暖房や冷房を駆使するわけだが。しかし、その移動の間にも、体温は3度内に維持されているというのはすごいことではないだろうか。どのようにして体温を維持させているのだろうか、ということ。
まず高温に関しては、体温よりわずかに高いだけなので(50度にも達する国や地域もあるが)大概は汗によって水冷?あるいは空冷していることが分かる。犬は舌を出して放熱しているらしい。
問題は寒い中で体温を上げる方法だ。
体全体の体温を上げているのは血液であろう。体の隅々まで行きわたって体温を維持していることは分かる。
凍えていた指先が温まってくるのは血が通っているからだろう。
では、指先を温めて温度が下がった血液をまた温め直すのはどこだろう。
心臓か。では心臓を温めているのは何か。血液。血液を温めるものは。加熱器はどこにある。
筋肉を運動させると熱を発する。体を動かせば温かくなるのは実感できる。
ということは、心臓自体が運動して熱を作っているのか、あるいは、体全体の細胞が動いて静脈を温めているのか。
そしてそれを管理する温度センサー。生命というDNAのシステムなのだろう。
熱―体温というのは実に不思議だと思うのだが。
それらは全て因縁のなせる業。「自分」などという主体はどこにもない、というのだが。

ここまで休場の松林山について

2015年01月26日 09時05分40秒 | ふと、考えた
大相撲初場所は白鵬の全勝で史上最多優勝という華々しい結果で終わりました。あまりおもしろみはありませんが。
一方、ご当地赤倉場所では…

今日の解説は、元横綱雪ノ舞の北風親方にお願いしています。
北風さん、今場所ここまで休場の松林山についてお伺いしますが、先場所痛めた足の状態が思わしくないようですね。
北:先場所、4日目にころんだ時に痛めたふくらはぎ断裂の影響があるみたいですよ。
三:治療とリハビリも続けてはいるようなのですが、何だか膝に痛みがあるようで大事をとっているということでしょうか。
北:無理をして悪化したらいかんということかもしれませんがね。稽古して治すような気構えがないとだめでしょう。まあ、とにかく普段の稽古が足りませんからね松林山は。普段からしっかりと稽古をつんでいれば、たとえ怪我をしたとしても治りも早いんですよ。それが、足腰を鍛えずに上半身だけで何とかしようとするからね、こういうことになるんですよ。
三:以前はよく土俵に上がり、荒削りながらなかなかいい形にもなってきたように見えたのですが。
北:そうですね。誰から教わったわけではないのに、努力して自分なりの形をね、作り上げてきたかと期待をしていたんですが。やはり基本をキチンと指導してもらわないといけないですかね。
三:先場所は本当に久しぶりに本場所復帰を果たして、これからもう一花咲かせようかと楽しみにしていたのですが。残念な結果となってしまいました。先場所は少し体も絞って引き締まって見えたのですが、体重もまた元に戻ったようです。
北:肌にツヤがないし、精気が感じられませんね。内臓の方も良くないんでしょ。
三:ええ、持病の痛風と高血圧がありますからね。本人も「若いころの不摂生がたたっている」と認めています。
北:若いころはね、先のことなど考えずに無茶することもありますがね。それが度を過ぎると後から痛い目にあうのは自分なんですから、若い人にはその辺も考えて、ほどほどにして稽古に励んでもらいたいと思いますね。私らもね、若いころはずいぶん無茶をしたもんですよ。だけどね、その次の日などもいつも通りに朝起きて、知らん顔して前の晩の無茶を帳消しにするぐらいにね、なお一層稽古したもんですよ。
三:そうですか。耳の痛い若い人もいるかもしれませんが、松林山もまだまだこれからですから頑張ってもらいたいと思います。
北:まだ引退という年ではないでしょ、また来場所しっかりと体を治して土俵に上がってもらいたいですね。
三:期待しましょう。ここまでの実況は三瓶でした。それでは赤倉温泉スキー場から失礼します。

味覚の変化

2015年01月25日 20時55分57秒 | ふと、考えた
味覚というものは年齢と共に変化するものらしい。以前にも書いたような気もするが。
永平寺に修行に行く前までは、甘いものなど見るのも嫌だった。
饅頭だとか羊羹だとか。およそ人間の食べ物とは考えられなかった。
それが何と不思議なことに、あの精神的な極限状態におかれると、なぜか無性にというよりも、命の底から必要とするように食べたくなることを自分でも信じられなかった。
饅頭によだれが出て、羊羹に涙するような経験だった。
もっとも、それ以外の食べ物全部に食べたい欲求はあったので、その一部とも言えるが、それまで眼中になかった甘いものまで食べたくなることに驚いたのかもしれない。
その後、永平寺にも慣れてくると次第に甘いものの欲求は薄れて、娑婆に戻った頃には元通り見向きもしなくなった。
ビールだとか、レバ刺しだとか、痛風の直接的な原因をひたすら求めていた。
それなのに、不思議でしかたない。
いつから甘いものがおいしいと思えるようになったのだろう。
年齢的には五十を過ぎてから、体よりも頭の労働が多くなってからのような気もする。
お茶菓子にロールケーキやどら焼きなどが添えられれば、心から食べたいと思う。時には口中に唾液が泌み出す。もちろん食べる。
高校生の頃、叔母が「ご飯食べた後甘いものを食べると胸がスーッとするのよね」という言葉を気味が悪いような思いで聞いていたが、今なら分かるような気がする。
年をとるとなぜ甘いものが欲しくなるのか。私には分からない。
肉の摂取量も減ったことは確かだ。体の欲求?
甘いものは何に必要?
今日も退屈なので、屋根から落ちた雪の片付けをしていたが、途中から低血糖の症状となり、糖分が必要となった。イチゴのお菓子を食べ、バナナを1本頬張ってようやく落ち着いた。なのに、予備として堅くなった饅頭をレンジで温めてポケットに押し込んで雪かきに戻った。少し動いてから雪の上で食べる饅頭は何とおいしかったことか。
お陰様で糖尿の心配はないので気兼ねなく食べている。
糖尿も高血圧も体質の問題らしく、痛風も血統だからしょうがない、自分のせいではないと、責任をDNAに押しつけて何の反省もない。
食べたいものを食べないで少し長生きするのが幸せなのか、食べたいものを好きなだけ食べて少し短く生きるのが幸せなのか、私には、分からない。

どうしてだろう

2015年01月24日 22時01分51秒 | ふと、考えた
どうしてだろう。
暇な時は何もできない。
寺の用事もなく、このところ雪も降らず、出かける用事もない。
雪でも降れば何だかんだ言っても「すること」があって達成感もある。
スポーツもおもしろい期待はどれも早々に敗れてしまって見るテレビもない。
予定表が真っ白な日は、それこそまとまってすべきことができそうなのに、これということもなく、ボンヤリと、ネット麻雀などに時間を費やし、眼が疲れたの、肩がこったの言いながら、何にもならない時を潰している。
予定が詰まっている時は、あれもしなければこれもしなければとわずかな時間を見つけてやるべきこと、したいことができるのに。
そういえば、中学生の頃から、テスト前になると部屋を片付けたり、プラモデルを作ったり暇な時はやらないことをしていた。
それは、自分だけの傾向ではなく、多くの人が経験のある事柄なのだろうか。
なぜなのだろう。
学生の頃、自己嫌悪に陥るのは暇だからだと気づき、自分の予定表がビッシリと埋まるように何でもかんでも予定を入れて、真っ黒になった手帳を見てそれだけで安心していた。
これでまだ仕事も現役だからいいものの、次々仕事が減ってきたら、どうやって時間を過ごすのだろう。のんきにゆったり過ごせばいい。などというのは自分にはできないように思える。
結局、何にもならない時間を無為に過ごし、体を壊し、自己嫌悪に陥り、周囲に毒をまき散らし、嫌な老人になってしまうのではないか。
そうか、それでそうゆう男性老人が多いのか。男は時間の使い方が下手なのか。仕事と暇な時では違うのか。
仕事をこなすためには必要な能力が、暇な時にはマイナスに作用するのか。
退職した男性が家にいても何もすることがないので、外出する奥さんに自分を連れて行けという症状を「連れてけ症候群」と呼ぶと聞いた。
男は仕事をするためだけに生きているのか。
何と寂しいではないか。悲しいではないか。
世の女性陣よ、男を使い捨てしないでいただきたい。
世の男どもよ、何もすることがないことに慣れていこう。何もしなくても迎えが来るまで生きればいいのだ。結果を出そうなどと思うな。その場を無為にやり過ごせばそれでいいのだ。
男らしくない?結構じゃないか。男のままでは生きづらいのだから。
せめて雪でも降ってくれれば。