なあむ

やどかり和尚の考えたこと

息子の永平寺上山

2009年03月07日 11時56分50秒 | 家族模様

愚息陽堂が永平寺の修行に旅立った。

今日は安下所(身支度を調える場所)である門前の地蔵院に一泊、明日永平寺山門の前に立つ。

寺の長男としての宿命で、物心ついたときから周囲が何を期待しているのかを痛いほど感じながら育つ。

自我に目覚めるにつれ、それは目の前にはだかる大きな障害として圧迫感を感じてくる。

「自分は何て不幸な星の下に生まれたのか」

「自分の将来、自分の仕事を自分で決められないなんて・・・」

と運命を恨む。その恨みは親に向かって向けられ、一切口をきかなくなる。というのは、私の場合だった。

幸い陽堂は、性格的なこともあり口をきかないということはなかったが、運命とどう向き合うかには相当悩んできたようだ。

紆余曲折がありながら、最後は修行に行くことを決め今日に至った。

決意してからの態度や顔つきが次第に変わってくるのが分かった。彼にとっては本当の意味での「出家」だったのだろう。

ここ数日の顔の変化にはハッとすることもあった。

覚悟を決めたときの顔というのは凛々しさを感じるものだと思った。

今陽堂は、明日の上山を前にして人生最大の緊張感を持って身構えていることだろう。

永平寺の修行は想像以上に厳しい。彼がどれほど最悪の厳しさを想像しようとも、それ以上に厳しいことは間違いない。

厳しさに耐えて頑張ろうとするとき、身を固くしてやり過ごそうとしてもだめだ。体も心ももたない。

今朝電話で最後に彼にかけた言葉「流れに抵抗してはだめだ。流れに身を任せてしまえば楽になる。」

道元禅師はこう示している

「ただわが身をも心をも、はなちわすれて、仏のいえになげいれて、仏のかたよりおこなわれて、これにしたがいもてゆくとき、ちからをもいれず、ここをもついやさずして、生死をはなれ、仏となる」と。

無事を祈る。