「かど売っでだげど、目が赤ぐないがら買うのやめだ」と母親が言った。
「かど」はニシンのこと、新鮮なニシンは目が赤いそうで、「目が赤いのはうまそう」なのだそうだ。
東北ではニシンを古くから「かど」と呼んできた。
昔はずいぶん穫れて、2月~3月に新かどが出回ると、箱買いをして軒先に吊していた。川原などで炭火で焼いて食べる「かどやき」は春を迎えた喜びとして風物詩ともなっていた。らしい。
その時に、新鮮なものを選ぼうと目の赤さを見たというわけだ。
その後、余市の熊さんではないが、乱獲のせいかニシンは激減していった。ニシン御殿もさびれて「石狩挽歌」の歌詞となった。
「かど」は和名、「ニシン」はアイヌ語。
元々東北、北海道でよく穫れて、それぞれ呼び名が違っていた。
それがなぜ日本の多くの地域で「かど」ではなく「ニシン」と呼ばれているのか。
北海道で大量に穫れたニシンは、はらわたを取って脂を搾った後、俵に詰めて肥料として北前船で近畿に運ばれた。
その肥料で瀬戸内を中心に綿花栽培が盛んに行われ、木綿が生産され着物が織られた。
それまでの日本人の着物は、貴族・豪族の絹かそれ以外は麻がほとんどで、冬の寒さを凌ぐのが難儀だった。
一般人にも手が届く木綿の着物で冬を越すことが容易になったことから、人口が爆発的に増えていった、という話を読んだことがある。
近畿に運ばれたニシンの中には、肥料ばかりでなく、はらわたを取って乾燥した状態で運ばれてくるものもあった、それが「身欠きニシン」だ。これが食べ物として、京ではニシン蕎麦などとして広まっていった。
近畿から西へ、そして関東へと北上して全国的に「ニシン」が通称となり、「かど」が残ったのは東北だけということになった。
しかし、その一部分によって「かど」の名は全国的にかろうじて広まり残ることになった。
それは「数の子」。つまり「かどの子」なのだ。
なぜニシンの子は「かどの子」として広まったのか。
これは私の勝手な推測だが、北海道で穫れたニシンはほとんどが肥料として「輸出」されたもので、卵も含めて内臓を食べるという習慣がなかったのではないか(アイヌの人々にもその習慣はなかったのではないか)。あるいは貯蔵技術が確立されておらず、運搬には向かなかったのかもしれない。
陸奥の国では、かどは大事な食料で、身はもちろん、内臓まできれいに食べたのではなかったか。特にかどの子は、きれいな色とその食感で、珍味として食べられていたのだと推測する。
それが珍味「かどの子」として独立して江戸まで南下して行ったのではなかったか。
ニシンは船で南へ、数の子は陸で南へ。
運搬方法によって名前の伝搬も違ってきたもののような気がする。
新かどが出回る頃らしい。母親の眼鏡にかなう赤目のかどが見つかるか。
「かど」はニシンのこと、新鮮なニシンは目が赤いそうで、「目が赤いのはうまそう」なのだそうだ。
東北ではニシンを古くから「かど」と呼んできた。
昔はずいぶん穫れて、2月~3月に新かどが出回ると、箱買いをして軒先に吊していた。川原などで炭火で焼いて食べる「かどやき」は春を迎えた喜びとして風物詩ともなっていた。らしい。
その時に、新鮮なものを選ぼうと目の赤さを見たというわけだ。
その後、余市の熊さんではないが、乱獲のせいかニシンは激減していった。ニシン御殿もさびれて「石狩挽歌」の歌詞となった。
「かど」は和名、「ニシン」はアイヌ語。
元々東北、北海道でよく穫れて、それぞれ呼び名が違っていた。
それがなぜ日本の多くの地域で「かど」ではなく「ニシン」と呼ばれているのか。
北海道で大量に穫れたニシンは、はらわたを取って脂を搾った後、俵に詰めて肥料として北前船で近畿に運ばれた。
その肥料で瀬戸内を中心に綿花栽培が盛んに行われ、木綿が生産され着物が織られた。
それまでの日本人の着物は、貴族・豪族の絹かそれ以外は麻がほとんどで、冬の寒さを凌ぐのが難儀だった。
一般人にも手が届く木綿の着物で冬を越すことが容易になったことから、人口が爆発的に増えていった、という話を読んだことがある。
近畿に運ばれたニシンの中には、肥料ばかりでなく、はらわたを取って乾燥した状態で運ばれてくるものもあった、それが「身欠きニシン」だ。これが食べ物として、京ではニシン蕎麦などとして広まっていった。
近畿から西へ、そして関東へと北上して全国的に「ニシン」が通称となり、「かど」が残ったのは東北だけということになった。
しかし、その一部分によって「かど」の名は全国的にかろうじて広まり残ることになった。
それは「数の子」。つまり「かどの子」なのだ。
なぜニシンの子は「かどの子」として広まったのか。
これは私の勝手な推測だが、北海道で穫れたニシンはほとんどが肥料として「輸出」されたもので、卵も含めて内臓を食べるという習慣がなかったのではないか(アイヌの人々にもその習慣はなかったのではないか)。あるいは貯蔵技術が確立されておらず、運搬には向かなかったのかもしれない。
陸奥の国では、かどは大事な食料で、身はもちろん、内臓まできれいに食べたのではなかったか。特にかどの子は、きれいな色とその食感で、珍味として食べられていたのだと推測する。
それが珍味「かどの子」として独立して江戸まで南下して行ったのではなかったか。
ニシンは船で南へ、数の子は陸で南へ。
運搬方法によって名前の伝搬も違ってきたもののような気がする。
新かどが出回る頃らしい。母親の眼鏡にかなう赤目のかどが見つかるか。