なあむ

やどかり和尚の考えたこと

孤独に耐える力

2016年09月23日 18時22分47秒 | ふと、考えた
京都で一人食事をしながら考えた。
人は孤独にどのように耐えているのだろうか。
今手にしているスマホがなかったらどうだろう。テレビがなかったらどうだろう。本も雑誌も新聞もなかったらどうだろう。
そういう設定そのものがあり得ない時代なのかも知れない。
しかし、今現在、病院や介護施設で一人孤独に耐えている老人がいることも事実だろう。
それが、今の若者に耐えられるのだろうか。いや、私に耐えられることなのだろうか。
電車に乗っている間、電車を待っている間、何かの合間、何もしないで、自分以外の情報と接触せずに過ごしている人を、ほとんど見たことがない。
今の老人たちの多くは、携帯もスマホも手にすることなく年老いた人たちではなかったか。あっても電話だけか。
一人になることも、退屈な時も、少なからずあったことだろう。
外部の情報がなかった時、彼らはどのように時を過ごしてきたのか。何を考えてきたのか。
過去を振り返る。自分のことを強く考える。誰かのことを強く思う。未来のことを考える。
そのようにして過ごしてきたのだろうか。

しかし、それが全て理想的なことだとは思わない。考え過ぎて固定観念にとらわれたり、相手の意思とは違う答えを、勝手に決め込んでしまう過ちもあるだろう。
しかし、全くその経験がない人間が、ある日突然情報遮断の事態に陥った時のパニック状態を想像してみる。
耐えられるのだろうか。
山や電波の届かない地に身を置いて、あるいは自ら通信機器や情報を放棄して、自然に身を任せるような、そんな経験は訓練になるだろうか。坐禅はそうかもしれない。

秋葉原で車を暴走させて無差別に殺傷した事件があった。
彼は、情報端末を手にしていながら孤独を感じていた。
人混みの中にいながら孤独に耐えられなかった。

結局、人間は孤独である。
最期の最期は誰も助けてくれない。
ただ一人、孤独に耐えるしかない。
その力は具わっているか。
時間を「自分の中で処理する」力。
「人は一人では生きていけない」と言う。
「生きていく」にはその通りだが、「生きる」のは独りだ。

何かを「読む」より、何かを「書く」方が訓練にはいいように思う。
日記でも自伝でも。
この文章を書きながらそう思った。

さあ、自分が孤独である事実を認識し、それに耐える力を身につけよう。
暇な時間を機器を頼らずに過ごしてみよう。
機器を使いながら、自分に呼びかける。