♪゜・*:.。. .。.:*・♪
三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!
今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。
今日は3月5日、もう3月ですね。
2月はあっという間に過ぎるので、なんだか損したような気分になります。
60歳になってから、朝のルーティーンが少しずつ増えてきています。
だいたい、毎日の起床時間は5時半。
顔を洗い、歯を磨いて、体重を測ります。
少し減量を意識しています。
メールをチェックしたりして、本堂へ。
6時から朝課ですが、時間の余裕によって、その前後に少し坐ります。
坐禅というほどの時間ではありませんが、足を組んだまま朝課を勤め、終わるとそのまま少し坐ります。
朝課では東日本大震災の復興祈願と物故者供養をいたします。
朝課終わって、そのまま本堂で四股を踏みます。
右、左、と25回ずつ計50回の四股です。
足腰の筋力維持、股関節のストレッチにいいと思います。
終わって内仏の読経。
我が家系の先祖供養をするのですが、母親の両親、連れ合いの母親の戒名も読み上げます。
そして、さらに、私がお世話になった方、友人、どうしても供養しないではいられない方の戒名も、月命日に読み上げるようになってきました。
それが、このところ急に増えてしまっているのです。
今年に入ってから、続けて二人大事な人を見送りました。
私がここにこうしているのは、もちろん先祖からの縦のつながりの結果です。
なので、先祖供養は当然なのですが、そればかりではなく、社会の縁として、その人がいなければ今の自分はないという人も当然あるわけです。
命のつながりを縦の糸として、社会のつながりを横の糸として、人生の織物が織りなされているわけですから、同じように感謝の供養をしないではいられないのです。
それを「私の過去帳」と呼んでいます。
我が家の過去帳プラスの自分にとっての過去帳です。
この歳になって、それがどんどん増えていくのは仕方のないことですから、しっかりと自分の中で受け止めていこうとしています。
そんなこんなで、朝の動きが流れとして形になってきました。
なぜこんなことを、などという理屈は考えないようにしています。
決められたこと、自分が決めたことに身を任せていれば、それはそれで楽なのです。
ですから、修行道場はある意味とても楽なところだとも言えます。
朝起きてから寝るまでの間、ほとんど自分で判断することもなく、決まっていることにただ身を任せていればいいだけなのですから。
もちろん体が慣れるまでには苦痛を感じます。
例えば事細かに決められた食事作法は、最初は誰しも覚えられず、ゴツゴツと怒られながら、全神経を集中して器を扱わなければなりません。
もう食事などしたくない、何よりも食事の時間が嫌だというような思いにもなります。
しかし、それも1カ月もすれば、ボンヤリしながらでも手は勝手に動くようになるし、食事は待ち遠しい時間となってきます。
要するに、修行道場は、生活の作法を体で覚える、身につけるということなのですね。
なので、身についてしまえば、何の苦痛もないし、頭を使うこともなければ、ある意味ただボンヤリ時間を費やしてしまうことにもなりかねません。
もちろんそんなに単純ではないのですが、要するに、決められたことのあることの良さを感じるという話です。
もしかしたら、これからもまだまだルーティーンの動きが増えるかもしれません。
身を任せる時間が増えるわけですから、それは楽しみでもあります。
さあ、3月もしっかり生きましょう!
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/74/46/a7755d636f23fcf17d3f3631f8014cd2_s.jpg)
©遠藤浩信エンドーフォト
三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!
今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。
今日は3月5日、もう3月ですね。
2月はあっという間に過ぎるので、なんだか損したような気分になります。
60歳になってから、朝のルーティーンが少しずつ増えてきています。
だいたい、毎日の起床時間は5時半。
顔を洗い、歯を磨いて、体重を測ります。
少し減量を意識しています。
メールをチェックしたりして、本堂へ。
6時から朝課ですが、時間の余裕によって、その前後に少し坐ります。
坐禅というほどの時間ではありませんが、足を組んだまま朝課を勤め、終わるとそのまま少し坐ります。
朝課では東日本大震災の復興祈願と物故者供養をいたします。
朝課終わって、そのまま本堂で四股を踏みます。
右、左、と25回ずつ計50回の四股です。
足腰の筋力維持、股関節のストレッチにいいと思います。
終わって内仏の読経。
我が家系の先祖供養をするのですが、母親の両親、連れ合いの母親の戒名も読み上げます。
そして、さらに、私がお世話になった方、友人、どうしても供養しないではいられない方の戒名も、月命日に読み上げるようになってきました。
それが、このところ急に増えてしまっているのです。
今年に入ってから、続けて二人大事な人を見送りました。
私がここにこうしているのは、もちろん先祖からの縦のつながりの結果です。
なので、先祖供養は当然なのですが、そればかりではなく、社会の縁として、その人がいなければ今の自分はないという人も当然あるわけです。
命のつながりを縦の糸として、社会のつながりを横の糸として、人生の織物が織りなされているわけですから、同じように感謝の供養をしないではいられないのです。
それを「私の過去帳」と呼んでいます。
我が家の過去帳プラスの自分にとっての過去帳です。
この歳になって、それがどんどん増えていくのは仕方のないことですから、しっかりと自分の中で受け止めていこうとしています。
そんなこんなで、朝の動きが流れとして形になってきました。
なぜこんなことを、などという理屈は考えないようにしています。
決められたこと、自分が決めたことに身を任せていれば、それはそれで楽なのです。
ですから、修行道場はある意味とても楽なところだとも言えます。
朝起きてから寝るまでの間、ほとんど自分で判断することもなく、決まっていることにただ身を任せていればいいだけなのですから。
もちろん体が慣れるまでには苦痛を感じます。
例えば事細かに決められた食事作法は、最初は誰しも覚えられず、ゴツゴツと怒られながら、全神経を集中して器を扱わなければなりません。
もう食事などしたくない、何よりも食事の時間が嫌だというような思いにもなります。
しかし、それも1カ月もすれば、ボンヤリしながらでも手は勝手に動くようになるし、食事は待ち遠しい時間となってきます。
要するに、修行道場は、生活の作法を体で覚える、身につけるということなのですね。
なので、身についてしまえば、何の苦痛もないし、頭を使うこともなければ、ある意味ただボンヤリ時間を費やしてしまうことにもなりかねません。
もちろんそんなに単純ではないのですが、要するに、決められたことのあることの良さを感じるという話です。
もしかしたら、これからもまだまだルーティーンの動きが増えるかもしれません。
身を任せる時間が増えるわけですから、それは楽しみでもあります。
さあ、3月もしっかり生きましょう!
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/74/46/a7755d636f23fcf17d3f3631f8014cd2_s.jpg)
©遠藤浩信エンドーフォト