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三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!
今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。
7月2日日曜日。7月になりました。
先日、栃木県宗侶研修会、山形曹洞宗青年会研修会と講演を依頼されてお話させていただきました。
還暦を過ぎて、少し遠慮なく、これまで遠慮していたのかという話は置いといて、話をさせていただきました。
どんな話をしたのかというのを語ってみたいと思います。
我々、自分を証明する書類の職業欄に「僧侶」と書く方が多いと思いますが、僧侶は職業なのかという話から始めました。
僧侶は言わば「出家」で、出家とは「出世間」のこと、つまり、世間世俗から離れて生きる人のことです。
東南アジアなどに伝わった南伝仏教、テラワーダと呼ばれる仏教の和尚さん方は、昼過ぎに固形物を口にしない、女性に触れない、お酒を飲まないなど、227の戒律を守りながら生活しています。
タイのお坊さんには選挙権も被選挙権もありません。
世俗の生活とは違う、別の生き方をするので「出家」と言われる所以です。
一方日本の仏教は、北方伝教、大乗仏教と呼ばれるもので、戒律に縛られていては衆生を救うことができないという理由で、戒律を減らし、大乗菩薩戒の「十重禁戒四十八軽戒」に限定しました。
曹洞宗は「十六条戒」としています。
しかし、それさえも守れているか、はなはだ疑問です。
結婚をし、お酒を飲み、亀虫を殺すこともあります。
在家の身なりをして、生活スタイルは何ら在家と変わりがありません。
これではたして出家と呼べるのか。
しかし我々は、寺に暮らし、頭を丸め、法衣を身にまとってお経を読んだりします。
出家とは言いがたいが「僧職」と言うことはできると思います。
僧職としてプロであるならば、もっとプロ意識を持つ必要があるはずです。
岩手正法寺の住職になられた盛田正孝老師が、ある研修会で次のように話されました。
「書く、読む、話す、がしっかりできていればお坊さんとしてそれほど問題はないでしょう」と。
位牌や塔婆を筆で書くこと。お経の読み方。法話。
この3つのどれか一つではなく、3つが共にできていればということでしょう。
「私は筆が苦手で」とか「お経は大丈夫だけど話はできない」という方がいます。
苦手ならばなぜできるように努力をしないのか。
位牌や塔婆は仏として檀家が拝むものであり、お経の読み声で心が洗われたと感じたりありがたいと感じたりするもので、あだやおろそかにできるものではありません。
法話は、檀家を信者にする大事なツールです。工夫努力が必要です。
プロと呼ばれる人々は、スポーツ選手でも、芸人でも、技術者でも、みんな努力をし続けているでしょう。努力し続けることがプロの証と言ってもいいでしょう。
よもや、少しばかり道場で修行したからといって、それでもう努力はしたんだなどと思っているわけではないですよね。
それだけで一生生きていけるほど社会は甘くありません。
また、寺院伽藍を預かる立場としては、檀家信者を増やす、少なくとも減らさないための、いわば企業努力をしなければならないわけで、檀家があるからと努力もしないで、寺を自宅みたいに私物化してはならないと強く思います。
お寺は生きているうちに来るところ。行きたくなるようなお寺にするのが住職の務めでしょう。
というようなことを話し、後半、法話の実演の話をしました。
先日電話があり、話を聞いてくれた青年僧の一人が、もう少し話を聞きたいと訪ねて来ることになりました。
学びたいと感じてくれたのはうれしいことです。
まあ、最近偉そうに話をすることが多いように自分で感じますが、許してもらいましょう。
だって、還暦だもの。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。
遠藤浩信 エンドーフォト
三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!
今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。
7月2日日曜日。7月になりました。
先日、栃木県宗侶研修会、山形曹洞宗青年会研修会と講演を依頼されてお話させていただきました。
還暦を過ぎて、少し遠慮なく、これまで遠慮していたのかという話は置いといて、話をさせていただきました。
どんな話をしたのかというのを語ってみたいと思います。
我々、自分を証明する書類の職業欄に「僧侶」と書く方が多いと思いますが、僧侶は職業なのかという話から始めました。
僧侶は言わば「出家」で、出家とは「出世間」のこと、つまり、世間世俗から離れて生きる人のことです。
東南アジアなどに伝わった南伝仏教、テラワーダと呼ばれる仏教の和尚さん方は、昼過ぎに固形物を口にしない、女性に触れない、お酒を飲まないなど、227の戒律を守りながら生活しています。
タイのお坊さんには選挙権も被選挙権もありません。
世俗の生活とは違う、別の生き方をするので「出家」と言われる所以です。
一方日本の仏教は、北方伝教、大乗仏教と呼ばれるもので、戒律に縛られていては衆生を救うことができないという理由で、戒律を減らし、大乗菩薩戒の「十重禁戒四十八軽戒」に限定しました。
曹洞宗は「十六条戒」としています。
しかし、それさえも守れているか、はなはだ疑問です。
結婚をし、お酒を飲み、亀虫を殺すこともあります。
在家の身なりをして、生活スタイルは何ら在家と変わりがありません。
これではたして出家と呼べるのか。
しかし我々は、寺に暮らし、頭を丸め、法衣を身にまとってお経を読んだりします。
出家とは言いがたいが「僧職」と言うことはできると思います。
僧職としてプロであるならば、もっとプロ意識を持つ必要があるはずです。
岩手正法寺の住職になられた盛田正孝老師が、ある研修会で次のように話されました。
「書く、読む、話す、がしっかりできていればお坊さんとしてそれほど問題はないでしょう」と。
位牌や塔婆を筆で書くこと。お経の読み方。法話。
この3つのどれか一つではなく、3つが共にできていればということでしょう。
「私は筆が苦手で」とか「お経は大丈夫だけど話はできない」という方がいます。
苦手ならばなぜできるように努力をしないのか。
位牌や塔婆は仏として檀家が拝むものであり、お経の読み声で心が洗われたと感じたりありがたいと感じたりするもので、あだやおろそかにできるものではありません。
法話は、檀家を信者にする大事なツールです。工夫努力が必要です。
プロと呼ばれる人々は、スポーツ選手でも、芸人でも、技術者でも、みんな努力をし続けているでしょう。努力し続けることがプロの証と言ってもいいでしょう。
よもや、少しばかり道場で修行したからといって、それでもう努力はしたんだなどと思っているわけではないですよね。
それだけで一生生きていけるほど社会は甘くありません。
また、寺院伽藍を預かる立場としては、檀家信者を増やす、少なくとも減らさないための、いわば企業努力をしなければならないわけで、檀家があるからと努力もしないで、寺を自宅みたいに私物化してはならないと強く思います。
お寺は生きているうちに来るところ。行きたくなるようなお寺にするのが住職の務めでしょう。
というようなことを話し、後半、法話の実演の話をしました。
先日電話があり、話を聞いてくれた青年僧の一人が、もう少し話を聞きたいと訪ねて来ることになりました。
学びたいと感じてくれたのはうれしいことです。
まあ、最近偉そうに話をすることが多いように自分で感じますが、許してもらいましょう。
だって、還暦だもの。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。
遠藤浩信 エンドーフォト