三ちゃんのサンデーサンサンラジオ、第278回。9月6日、日曜日。
まずは報道部から1週間の動きをまとめて。
30日日曜日、花の鶴楯を創る会
3日木曜日、仙台で葬儀
4日金曜日、軽架線の下見
というような1週間でした。
沖縄九州を中心に台風の被害はなかったでしょうか?
日本は災害大国になってしまったようです。
先日朝、外にいると、カミさんが玄関から包丁を握りしめて出てきました。
刃を向けて近づいてきます。
「誰を殺しに行くんだ?」と私。
「あなたよ。保険金は安いけどね」とカミさん。
あの、殺したのが分かった場合保険金はおりないと思うのですけど。
(そっちかい)
どうも保険金の種としか見られていないようです。
何のことはない、みょうがの葉を刈りに行っただけのようでした。
3日日曜日は「花の鶴楯を創る会」の設立総会でした。
山の土地の地権者が集まり、趣旨に賛同を得て発会を見ました。
鶴楯は、集落近くの小高い山の上にあったもので、1580年、万騎の原合戦の武功により最上義光から当地を与えられた小国日向守が、本城小国城の分楯として1605年に築城したものです。
そこは、それ以前の細川摂津守時代にも楯はあった場所で、ゆえに古楯(フンダテ)と呼ばれていました。
鶴楯に居城した日向守の一族は、その城下を本城にならって「下小路」「立小路」と命名しました。ゆえに、下小路立小路のにとって鶴楯はその象徴であり、中心であると言っていいのです。
1622年、最上家の改易によって小国城も破却され、小国家の統治は42年間で幕を閉じました。
それ以降、鶴楯の麓には秋葉山、馬頭観音、観世音菩薩などの石碑、中腹には猿田彦神社、頂上には太平山三吉神社を祀り、楯なき後も下小路立小路のによってその跡地は大事にされてきました。
鶴楯の遺跡を、両の中心として今後も大切にしていくために、桜と楓、アジサイを植樹して「花の鶴楯」として整備をしていく計画です。
頂上からは下小路立小路はもちろんのこと、万騎の原から月楯方面まで一望できる眺めがすばらしい。
桜や紅葉は、陸羽東線の乗客、国道47号線の車からも目を引くことでしょう。
春には花見、秋には紅葉狩りとして人々が集う。そんな、子孫まで自慢できる故郷のシンボルを創るための組織として「花の鶴楯を創る会」を設立しました。
まずは、頂上からの眺めを確保するために、支障木を伐採することから始めたいと思います。
13日にはみんなで山に登り、支障木の選定をする予定です。
4日に行った軽架線の下見というのもその事業の関連ですが、新庄の農林大学校の実習で、ワイヤーを使って伐採した木を麓に下ろす実地研修を行うための下見でした。
想像しています。
春になり、雪が解けると桜が咲きだし、山が白い道を作ります。遠くからもそれを眺めて行ってみたくなります。
石碑や祠に手を合わせながら参道を上り詰めると、頂上はパーッと視界が開け、田んぼの水がキラキラ光り、新緑の風が頬を爽やかに撫でていきます。
花の下では盃に花びらを浮かべて酒を酌み交わしています。
夏にはアジサイが咲き乱れ、木漏れ日が揺れています。蝉が鳴き、緑陰は汗ばんだ背中に涼を与えてくれます。
秋、山が紅く染まり人々を誘います。
親子連れや孫を連れたおじいちゃんおばあちゃんが登ってきて、眼下に黄金色の稲穂の波や陸羽東線を走る列車、国道47号線を通る車を眺めて歓声を上げています。
大人たちは、子供たちに遺跡の歴史を語り、神様に手を合わせることを教え、里山を大切にすることを伝えます。
故郷を離れた人々も、帰ったら鶴楯に行こうと思うでしょう。
喧騒が去ると、やがて山は白い眠りにつきます。
古の歴史を知り、信仰心を育て、人々が楽しく集う、そんな、自慢したくなるような里山を作り出そうとしています。
ということで、また一つの事業が動き出しました。
何度も言うようですが、人生は実に短い。
たとえ生きていたとしても、体はいつまで動くのか、気力はどこまで続くのか、声をかけて手伝ってくれる仲間はいるのか。
そう考えると、物事ができる時期、機縁というかタイミングがあるでしょう。
今の自分にできること、今の自分でなければできないことがあると感じます。
それは機を逃さずにやりたい。できなくなってから後悔したくない。
60歳を一期と定めてから、一度リセットして、あとはやりたいことをやろうとしています。
もう長くはないのですから。
いえいえ、カミさんに刺されることはない、と思います。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。
まずは報道部から1週間の動きをまとめて。
30日日曜日、花の鶴楯を創る会
3日木曜日、仙台で葬儀
4日金曜日、軽架線の下見
というような1週間でした。
沖縄九州を中心に台風の被害はなかったでしょうか?
日本は災害大国になってしまったようです。
先日朝、外にいると、カミさんが玄関から包丁を握りしめて出てきました。
刃を向けて近づいてきます。
「誰を殺しに行くんだ?」と私。
「あなたよ。保険金は安いけどね」とカミさん。
あの、殺したのが分かった場合保険金はおりないと思うのですけど。
(そっちかい)
どうも保険金の種としか見られていないようです。
何のことはない、みょうがの葉を刈りに行っただけのようでした。
3日日曜日は「花の鶴楯を創る会」の設立総会でした。
山の土地の地権者が集まり、趣旨に賛同を得て発会を見ました。
鶴楯は、集落近くの小高い山の上にあったもので、1580年、万騎の原合戦の武功により最上義光から当地を与えられた小国日向守が、本城小国城の分楯として1605年に築城したものです。
そこは、それ以前の細川摂津守時代にも楯はあった場所で、ゆえに古楯(フンダテ)と呼ばれていました。
鶴楯に居城した日向守の一族は、その城下を本城にならって「下小路」「立小路」と命名しました。ゆえに、下小路立小路のにとって鶴楯はその象徴であり、中心であると言っていいのです。
1622年、最上家の改易によって小国城も破却され、小国家の統治は42年間で幕を閉じました。
それ以降、鶴楯の麓には秋葉山、馬頭観音、観世音菩薩などの石碑、中腹には猿田彦神社、頂上には太平山三吉神社を祀り、楯なき後も下小路立小路のによってその跡地は大事にされてきました。
鶴楯の遺跡を、両の中心として今後も大切にしていくために、桜と楓、アジサイを植樹して「花の鶴楯」として整備をしていく計画です。
頂上からは下小路立小路はもちろんのこと、万騎の原から月楯方面まで一望できる眺めがすばらしい。
桜や紅葉は、陸羽東線の乗客、国道47号線の車からも目を引くことでしょう。
春には花見、秋には紅葉狩りとして人々が集う。そんな、子孫まで自慢できる故郷のシンボルを創るための組織として「花の鶴楯を創る会」を設立しました。
まずは、頂上からの眺めを確保するために、支障木を伐採することから始めたいと思います。
13日にはみんなで山に登り、支障木の選定をする予定です。
4日に行った軽架線の下見というのもその事業の関連ですが、新庄の農林大学校の実習で、ワイヤーを使って伐採した木を麓に下ろす実地研修を行うための下見でした。
想像しています。
春になり、雪が解けると桜が咲きだし、山が白い道を作ります。遠くからもそれを眺めて行ってみたくなります。
石碑や祠に手を合わせながら参道を上り詰めると、頂上はパーッと視界が開け、田んぼの水がキラキラ光り、新緑の風が頬を爽やかに撫でていきます。
花の下では盃に花びらを浮かべて酒を酌み交わしています。
夏にはアジサイが咲き乱れ、木漏れ日が揺れています。蝉が鳴き、緑陰は汗ばんだ背中に涼を与えてくれます。
秋、山が紅く染まり人々を誘います。
親子連れや孫を連れたおじいちゃんおばあちゃんが登ってきて、眼下に黄金色の稲穂の波や陸羽東線を走る列車、国道47号線を通る車を眺めて歓声を上げています。
大人たちは、子供たちに遺跡の歴史を語り、神様に手を合わせることを教え、里山を大切にすることを伝えます。
故郷を離れた人々も、帰ったら鶴楯に行こうと思うでしょう。
喧騒が去ると、やがて山は白い眠りにつきます。
古の歴史を知り、信仰心を育て、人々が楽しく集う、そんな、自慢したくなるような里山を作り出そうとしています。
ということで、また一つの事業が動き出しました。
何度も言うようですが、人生は実に短い。
たとえ生きていたとしても、体はいつまで動くのか、気力はどこまで続くのか、声をかけて手伝ってくれる仲間はいるのか。
そう考えると、物事ができる時期、機縁というかタイミングがあるでしょう。
今の自分にできること、今の自分でなければできないことがあると感じます。
それは機を逃さずにやりたい。できなくなってから後悔したくない。
60歳を一期と定めてから、一度リセットして、あとはやりたいことをやろうとしています。
もう長くはないのですから。
いえいえ、カミさんに刺されることはない、と思います。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。