なあむ

やどかり和尚の考えたこと

サンサンラジオ317 鳴る気があるのか

2021年06月06日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第317回。6月6日、日曜日。

6月に入りました。
ふと考えました。

仏壇の前にある鐘、「りん」と言ったりしますが、これをバイで打つときれいな音がします。
きれいな音が鳴るように作られていると言ったらいいでしょうか。
大きな口を開けて「鳴る態勢」ができています。
そこにバイが当たるのを待っていたかのように、きれいな音で鳴ってくれます。
鳴っているのは鐘そのもので、バイが当たるのはきっかけに過ぎません。
鳴る態勢とは、まずは形そのものが鳴るようにできていなければなりません。
口が開いていなかったり、いびつな形ではいい音は出ないでしょう。
そして、鐘の中が空っぽでなければ鳴りません。
たとえば、中に粘土のようなものがびっちり詰まっていれば、どんなに形がよくても全く鳴らないでしょう。
小銭などが底に入っていても、ビリビリと不快な音がしてきれいには鳴りません。
常に中を空っぽにしておく必要があります。

これを修行と悟りに当てはめるとこうなります。
自分自身を空っぽにして鳴る態勢を整えておく、というのが修行になります。
そこにきっかけがあれば、いつでも鳴るのです。それが悟りです。
音が鳴るというのは、鳴る態勢が整っていることと同じことです。
逆に言えば、鳴る態勢が整っていれば、鳴っていることと同じです。
それを「修証不二」と言います。
修行のほかに悟りはなく、悟りのほかに修行はない。
修行と悟りはひとつであるということです。
坐禅は、鐘のように鳴る態勢の相です。風に鳴り鳥語に鳴ります。
それは、頭を空っぽにする断捨離の行でもあります。

私たちは、生まれながらに鳴る性質を持っています。
生きる過程において、いろんな経験を重ね知識を蓄えて、それが鐘を重厚なものへと鍛えていくでしょう。
多少の傷も、自ら修復しながら、それがまた渋みとしていい味を出すように鍛えられていくのです。
しかし、その体が空っぽでなければ、重厚な音も渋みのある音も鳴ることはないでしょう。
経験や知識は、腹に持つものではなく、身に取り入れて体にしていくものです。
腹はいつも空っぽであるべきです。
ぷっくり膨らんだ布袋様の腹の中は、何かが詰まっているのではなく空っぽなのです。(うんうん…)
経験や知識は記憶となって蓄積されますが、それらは全て自分の身になったのであって、記憶そのものを「持つ」必要はありません。
記憶は捨てていいのです。いや、捨てるべきなのです。
身についていないものは、持っていても何の役にも立ちません。
記憶がなくとも、身についたものは鳴るのです。

別に修行と悟りというような難しい話でなくとも、一般社会でも同じことが言えます。
鳴る態勢が整っている人は、ちょっとしたきっかけですぐに鳴ります。
腹に一物がない人は特に鳴ります。
過去の記憶にとらわれ、ひがんでみたりねたんでみたり、他人と比べてみたり自分を卑下してみたり、つまらない知識で知ったかぶりをしてみたり過去の栄光を自慢してみたり、昔言われたことを思い出して腹を立ててみたりそれに言い返せなかった自分を悔しがったり。
腹にいっぱい詰まっている人は、きっかけを与えられてもなかなか鳴りません。
空っぽの人は、隣で誰かが鳴っているだけで共振、共鳴して鳴りだすものです。
また自分の音で隣の人が鳴りだしたり。そんな人が大勢集まれば、大共鳴するでしょう。
社会を良く変えていく原動力にもなります。

あなたは鳴る態勢を整えているか。
「鳴る」とは、「自分の命を輝かす」という意味で今使っています。
生まれてきてよかった、生きていてよかったと実感するために。
どこぞの本のタイトルではありませんが、「鳴る気があるのか」ということですかね。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。