なあむ

やどかり和尚の考えたこと

サンサンラジオ319 死にゆく私を見なさい

2021年06月20日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第319回。6月20日、日曜日。

例年6月は最も忙しい月で、松林寺では第1日曜日に集中講座、第2土曜日に大般若、24日は地蔵例大祭があり、また特派布教もこの月が一番多い期間なので出かけることが集中します。
ところが去年今年は、今年何とか大般若会を挙行しただけであとは何もありません。暇なので草むしりなどで過ごしています。
鉢の蓮と睡蓮を育てたり、そこにメダカを放したりして遊んでいます。
蓮の鉢にボーフラが湧いたので、その駆除のために漂白剤を入れてみたら、確かに一時的にボウフラは死んだのですが水がギラギラになってしまい後悔しました。蓮にも良くなかったでしょう。しかも、ボウフラは間もなく湧いてきました。
そこで、睡蓮鉢で育てていたメダカを数匹蓮の鉢に移してみるとボウフラをよく食べます。なんだ、最初からそうすればよかったじゃないか。
確かに睡蓮鉢にボウフラが湧かなかったのは大きくなる前に食べたからかもしれません。
ただ、そのメダカは去年ここで孵ったメダカなので睡蓮鉢に放した頃はまだ小さく、ボウフラが口に入るか、逆にボウフラに食べられないか?心配だったのです。いや実際に、「針子」と呼ばれる孵ったばかりのメダカはボウフラに食べられるから注意とネットに書いてあります。
なので、ここで孵ったメダカが心配なので、わざわざホームセンターから安いメダカを買ってきて試しに放してみて、大丈夫そうなのでウチのメダカを放したのでした。
試しにって、買ってきたメダカは死んでもいいのか、ということになりますが、やはり、ここで生まれてここまで育てたメダカには愛着があります。もしものことがあったらと思いました。命の選別をしてはいけませんね。

「今日確認された感染者は〇〇人、死者は〇〇人」と報道されます。
死者一人ひとりに人生があったはずなのに、人数としてのみ数えられることに違和感を感じます。
事故や災害で亡くなった場合、「亡くなられた方々」と実名で報道されるのとは違う扱いです。
感染者も、差別や偏見で排除されることがあるから実名を報じない、その延長線上に死者もあるのでしょうか。
芸能人や政治家の例外はありましたが。
自殺者の実名も報道されません。それと同じ扱いなのでしょうか。
しかし、自殺者も含めて、どんな亡くなり方をしたとしても、その人が生きた時間と事実は確かにあるのであり、亡くなり方でその人の人生そのものを否定するようなことはあってはならないと思います。
亡くなり方でその人生が色褪せることはないのですから。
誰にも知られずに、あるいは隠すようにひっそりと葬られることは寂しいことです。
お釈迦様は誕生して「唯我独尊」と発し、亡くなられるときには「涅槃図」の如くみんなに見守られて亡くなられました。
そのように、全ての命の存在が尊重されるべきであると同じく、全ての死も尊重されなければなりません。
ましてや、感染症で亡くなったのは、その人のせいではないでしょう。
なぜ隠れなければならないのか、隠さなければならないのか。
世界的なこの災難に、人類全員で立ち向かっていかなければならないとするならば、むしろ、死の事実、死の様子、その人の人生、残す言葉、願い、その家族の悲しみ痛みを共有し、それを全員が心に刻んでいかなければならないのではないか。それが立ち向かうことにつながるのではないか。
他人事として無関心を装うことによって感染は拡大される、無関心と感染は比例するのではないか、と思います。
ローマ教皇フランシスコは、
「わたしたちを今後ひどく襲う危険があるのは、無関心な利己主義というウイルスです」と言っています。

一般の葬儀においても、死の悲しみを共有することによって、自らの命を見直す機会にもなっていたでしょう。
友人の弔辞を聞いてその人生から学ぶことはあったでしょうし、遺族の挨拶から無常を感じたり、孫のお別れの言葉から家族を大切にしなければならないと気づかされたりもしたでしょう。
葬儀の案内板を見ただけで無常を観ずる人もいるのです。
家族だけで済ませた、ということでその機会は奪われることになります。
葬儀の意味の再確認をしていかないと、生きる意味の学びの場を失ってしまいます。
お釈迦様は最期に「黙って私の死にゆく姿を見なさい」と言いました。
死そのものを生きる学びとして、身をなげうって教材としたのです。
「死の窓を通して生を見る」と言った人がいます。
死を大切にすることは生を大切にすること。おろそかにしてはなりません。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。