三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第351回。2月6日、日曜日。
立春です。家族と節分も勤めました。
雪の多い年ですが、間もなく三寒四温、少しずつ雪も解けていくでしょう。もう少しの辛抱です。
浄玻璃の鏡の前に立つまでは秘めておきたしあのこともこのことも 相田みつを
明日、後頭部強打の1か月検診です。
ちょうど五七日目で、中陰であればまさに閻魔大王直々の審判の日です。
今のところ外面では異常は出ていないのですが、脳の内部のことですからね、どうなっているか分かりません。
自分では見えないところで進行しているということもあり得ます。
隠しておきたいあのことも、忘れていたそのことも、MRIという浄玻璃の鏡には全部映ってしまうのでしょう。
もう俎板の鯉ですから、しかたない、隅々まで徹底的にさらけ出して見てもらいましょう。
その上での大王の審判ですから受け入れるしかありません。
小さな欲にとらわれ惑わされて、今すべきこと、しなければならないこと、あの時こうしておけばよかったなと後悔するようなこと、を仕損じることがあってはなりません。
今でなければ間に合わないことがあります。
時は間断なく過ぎていき、自分も相手も変わっていく、あるいは亡くなっていくのですから、今でなければならないことがあるのです。
なのに、どうでもいい小さな欲にとらわれ、すべきことができないのは残念なことです。
たとえば、あなたが国の王様だとします。
今、高い塔の上に立って国と民を眺めています。
「この国を治め、民に幸せをもたらすにはどうすればいいだろうか」と思案しているとします。
「争いがなく、豊かで、子どもの笑い声が絶えず、老人が大切にされ、お互いがお互いを尊敬しあう、穏やかな国を作るためには」と考えています。
そのような大局に立って、国全体の幸せを願う王の願いは、いわば「大欲」と言っていいでしょう。
その時に、権力や、名誉や、金銭や、女などの小さな欲に目がくらみ、惑わされてしまえば、大局を見誤り、大欲が果たせないことにもなりかねません。
大欲が強ければ強いほど、小欲はどうでもよくなってしまうはずです。
あなたが王様でなくとも、あなたの家族、親戚、友人、仲間、地域、国、世界、全ての人々の幸せを願うという大欲があれば、些細な欲に振り回されることもないでしょう。
小欲がたくさんあるよりは、大欲が一つ、その方が生きる道を誤らず、生まれて生きて来た意味を実感できるように思います。
それは「少欲」だ、と言ってもいいでしょう。
「四無量心」の「無量」とは何か、と考えていましたが、この「大欲」と同じ意味だと思いました。
自分の幸せを願う心を、家族、仲間、地域と、少しづつ広げて行って、無量のすべての人々の幸せを願うという思い、それが「無量」ということなのでしょう。いわば、それは「大欲」だと気づきました。
大欲によって小欲をつぶしていく、取るに足らない欲であると、とらわれなくなっていく。
ただし、大欲を持つ年齢というものがあるように思います。
赤ん坊から子供時代には目の前の小欲以外ないでしょう。
脳の大部分が性欲に占有されているニキビ時代には大欲は無理でしょう。
企業戦士としてバリバリ働いている時は、競争という原理の中でしかものを考えられないでしょうから、やはり難しいと思います。
少し枯れかかってきている年代が大欲の適期のように思います。
もちろん人にもよります。
国内外の為政者、政治家などを見ていると、自分のための小欲のかたまりなのではないかと思われてなりません。
自分第一の欲しか持ち合わせない人以外は政治家になれないかのようです。
お釈迦様が国王であったならどんなにか素晴らしい国になっただろうに。
いや、お釈迦様は国を超えたのですね。
国の垣根を超えて、また人間という垣根も超えて、無量の「慈悲喜捨」の心をもって法を説かれたのです。
国王などにおさまる人ではなかった。
そんな人になりたいと思います。
まず、とりあえずは明日の大王の審判次第。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。
立春です。家族と節分も勤めました。
雪の多い年ですが、間もなく三寒四温、少しずつ雪も解けていくでしょう。もう少しの辛抱です。
浄玻璃の鏡の前に立つまでは秘めておきたしあのこともこのことも 相田みつを
明日、後頭部強打の1か月検診です。
ちょうど五七日目で、中陰であればまさに閻魔大王直々の審判の日です。
今のところ外面では異常は出ていないのですが、脳の内部のことですからね、どうなっているか分かりません。
自分では見えないところで進行しているということもあり得ます。
隠しておきたいあのことも、忘れていたそのことも、MRIという浄玻璃の鏡には全部映ってしまうのでしょう。
もう俎板の鯉ですから、しかたない、隅々まで徹底的にさらけ出して見てもらいましょう。
その上での大王の審判ですから受け入れるしかありません。
小さな欲にとらわれ惑わされて、今すべきこと、しなければならないこと、あの時こうしておけばよかったなと後悔するようなこと、を仕損じることがあってはなりません。
今でなければ間に合わないことがあります。
時は間断なく過ぎていき、自分も相手も変わっていく、あるいは亡くなっていくのですから、今でなければならないことがあるのです。
なのに、どうでもいい小さな欲にとらわれ、すべきことができないのは残念なことです。
たとえば、あなたが国の王様だとします。
今、高い塔の上に立って国と民を眺めています。
「この国を治め、民に幸せをもたらすにはどうすればいいだろうか」と思案しているとします。
「争いがなく、豊かで、子どもの笑い声が絶えず、老人が大切にされ、お互いがお互いを尊敬しあう、穏やかな国を作るためには」と考えています。
そのような大局に立って、国全体の幸せを願う王の願いは、いわば「大欲」と言っていいでしょう。
その時に、権力や、名誉や、金銭や、女などの小さな欲に目がくらみ、惑わされてしまえば、大局を見誤り、大欲が果たせないことにもなりかねません。
大欲が強ければ強いほど、小欲はどうでもよくなってしまうはずです。
あなたが王様でなくとも、あなたの家族、親戚、友人、仲間、地域、国、世界、全ての人々の幸せを願うという大欲があれば、些細な欲に振り回されることもないでしょう。
小欲がたくさんあるよりは、大欲が一つ、その方が生きる道を誤らず、生まれて生きて来た意味を実感できるように思います。
それは「少欲」だ、と言ってもいいでしょう。
「四無量心」の「無量」とは何か、と考えていましたが、この「大欲」と同じ意味だと思いました。
自分の幸せを願う心を、家族、仲間、地域と、少しづつ広げて行って、無量のすべての人々の幸せを願うという思い、それが「無量」ということなのでしょう。いわば、それは「大欲」だと気づきました。
大欲によって小欲をつぶしていく、取るに足らない欲であると、とらわれなくなっていく。
ただし、大欲を持つ年齢というものがあるように思います。
赤ん坊から子供時代には目の前の小欲以外ないでしょう。
脳の大部分が性欲に占有されているニキビ時代には大欲は無理でしょう。
企業戦士としてバリバリ働いている時は、競争という原理の中でしかものを考えられないでしょうから、やはり難しいと思います。
少し枯れかかってきている年代が大欲の適期のように思います。
もちろん人にもよります。
国内外の為政者、政治家などを見ていると、自分のための小欲のかたまりなのではないかと思われてなりません。
自分第一の欲しか持ち合わせない人以外は政治家になれないかのようです。
お釈迦様が国王であったならどんなにか素晴らしい国になっただろうに。
いや、お釈迦様は国を超えたのですね。
国の垣根を超えて、また人間という垣根も超えて、無量の「慈悲喜捨」の心をもって法を説かれたのです。
国王などにおさまる人ではなかった。
そんな人になりたいと思います。
まず、とりあえずは明日の大王の審判次第。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。