三ちゃんのサンデーサンライズ。第417回。令和5年5月21日、日曜日。
気仙沼に来ています。
昨日は、清凉院さんで茶木みやこさんのギター弾き語りと黒田かなでさんのバイオリンコンサートがあり呼ばれました。
歌声が本堂になじんでいい雰囲気となりました。
境内も来るたびごとに整備され、緑多い理想の環境となっています。
訪れる人が、心洗われる思いをするに違いないと思います。
18日は地酒酒米の田植えでした。
手植えのイベントもなく全て機械植えで小一時間ほどで終了しました。
今年も昨年と同じ、2400㎏の収量を目指します。後は天候次第。
酒の味は米と水が決め手ですから、その組み合わせが絶妙でおいしい酒になっているに違いありません。
おいしい酒になるためにすくすく育って欲しいと願います。
集中講座が2週間後となりました。
今までとは本堂の使い方の向きを変えて、本尊様を背に内陣での講演にしようかと考えています。
それに合わせて椅子の並べ方を検討しました。170席は確保できそうです。
当日の状況をシミュレーションしながらあれこれ考えるのはとても楽しい時間です。
準備が楽しく、本番が楽しく、終わってからの打ち上げが楽しい。
だからこれまで続けてくることができました。
さあ、精一杯楽しみましょう。
お金がなければ生きていけない。
確かにそうでしょう。特に現代の流れはそれが強調されて進んでいるように思います。
お金は「現実」の問題です。
しかし、現実の外に「理想」を見出すのが人間の特徴だと言えます。
「理想で飯が食えるか」と現実主義者は言うでしょう。
でも、飯を食うだけのための生き方であれば動物と変わりません。
理想を語る人もお金を必要としないと言っているわけではありません。
現実だけではなく理想だけでもない、そのバランスが大事ということですね。
仏教などは理想を追求するものだと思います。
理想的な人間、理想的な生き方、理想的な社会を求めて、それに向かって進むのが仏教徒であろうと思います。
なので「四弘誓願文」では、
衆生無辺誓願度(苦しむ人々は無数に存在するけれど、最後の一人まで救っていこう)
煩悩無尽誓願断(煩悩は尽きることがないけれど、それにまどわされないで生きよう)
法門無量誓願学(仏の教えには際限がないけれど、学べるだけ学んでいこう)
仏道無上誓願成(仏の道に終わりはないけれど、最後までこの道を歩んで行こう)
を心に誓う訳です。
また、古くから
法輪転ずれば食輪転ず(ほうりんてんずればじきりんてんず)
と言います。
車の両輪のように、法を説き、法に従って生きていれば、食は付いて回る、生きていけるという意味です。
ある意味楽観的な云い様ですが、現実を考える前に理想に向かって生きよ、と言っているのだと受け止めます。
元々お坊さんは現実から「出家」した人であるわけですから、世間離れした人であることは否めません。
朝の連ドラのモデル牧野富太郎が植物研究を続けられたのは実家が裕福だったからという理由ですが、実家が傾いてからは莫大な借金を抱えるようになりました。
それでも94歳で亡くなるまで研究者でいられたのは、現実より理想を追ったからだと思われます。理想に現実がついてきたのです。
理想を追求して現実がついてくることはあっても、現実を追求して理想がついてくることはないでしょう。
現実と理想という夫婦は、時には反発し、時には理解し、譲り合って仲良く生きていくしかないのですね。
それでも、1㎝でも1gでも理想が勝っていればいいなと思うところです。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。
気仙沼に来ています。
昨日は、清凉院さんで茶木みやこさんのギター弾き語りと黒田かなでさんのバイオリンコンサートがあり呼ばれました。
歌声が本堂になじんでいい雰囲気となりました。
境内も来るたびごとに整備され、緑多い理想の環境となっています。
訪れる人が、心洗われる思いをするに違いないと思います。
18日は地酒酒米の田植えでした。
手植えのイベントもなく全て機械植えで小一時間ほどで終了しました。
今年も昨年と同じ、2400㎏の収量を目指します。後は天候次第。
酒の味は米と水が決め手ですから、その組み合わせが絶妙でおいしい酒になっているに違いありません。
おいしい酒になるためにすくすく育って欲しいと願います。
集中講座が2週間後となりました。
今までとは本堂の使い方の向きを変えて、本尊様を背に内陣での講演にしようかと考えています。
それに合わせて椅子の並べ方を検討しました。170席は確保できそうです。
当日の状況をシミュレーションしながらあれこれ考えるのはとても楽しい時間です。
準備が楽しく、本番が楽しく、終わってからの打ち上げが楽しい。
だからこれまで続けてくることができました。
さあ、精一杯楽しみましょう。
お金がなければ生きていけない。
確かにそうでしょう。特に現代の流れはそれが強調されて進んでいるように思います。
お金は「現実」の問題です。
しかし、現実の外に「理想」を見出すのが人間の特徴だと言えます。
「理想で飯が食えるか」と現実主義者は言うでしょう。
でも、飯を食うだけのための生き方であれば動物と変わりません。
理想を語る人もお金を必要としないと言っているわけではありません。
現実だけではなく理想だけでもない、そのバランスが大事ということですね。
仏教などは理想を追求するものだと思います。
理想的な人間、理想的な生き方、理想的な社会を求めて、それに向かって進むのが仏教徒であろうと思います。
なので「四弘誓願文」では、
衆生無辺誓願度(苦しむ人々は無数に存在するけれど、最後の一人まで救っていこう)
煩悩無尽誓願断(煩悩は尽きることがないけれど、それにまどわされないで生きよう)
法門無量誓願学(仏の教えには際限がないけれど、学べるだけ学んでいこう)
仏道無上誓願成(仏の道に終わりはないけれど、最後までこの道を歩んで行こう)
を心に誓う訳です。
また、古くから
法輪転ずれば食輪転ず(ほうりんてんずればじきりんてんず)
と言います。
車の両輪のように、法を説き、法に従って生きていれば、食は付いて回る、生きていけるという意味です。
ある意味楽観的な云い様ですが、現実を考える前に理想に向かって生きよ、と言っているのだと受け止めます。
元々お坊さんは現実から「出家」した人であるわけですから、世間離れした人であることは否めません。
朝の連ドラのモデル牧野富太郎が植物研究を続けられたのは実家が裕福だったからという理由ですが、実家が傾いてからは莫大な借金を抱えるようになりました。
それでも94歳で亡くなるまで研究者でいられたのは、現実より理想を追ったからだと思われます。理想に現実がついてきたのです。
理想を追求して現実がついてくることはあっても、現実を追求して理想がついてくることはないでしょう。
現実と理想という夫婦は、時には反発し、時には理解し、譲り合って仲良く生きていくしかないのですね。
それでも、1㎝でも1gでも理想が勝っていればいいなと思うところです。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。