なあむ

やどかり和尚の考えたこと

サンデーサンライズ429 まだ要らない

2023年08月13日 05時00分00秒 | サンデーサンライズ
三ちゃんのサンデーサンライズ。第429回。令和5年8月13日、日曜日。

お盆に突入しました。
先週も暑かったですね。
先週も温暖化の話をしましたが、寒い時期に温暖化と言っても「それは結構なことだ」ぐらいにしか受け止められず、深刻には考えられないので、この酷暑の季節にこそ真剣に考えたいものです。
これから毎年こんな状況なら、いや、毎年どんどんこれ以上になるとしたなら、どうします?
50年前の暮らしを思い返してみると、田舎のほとんどの家にはエアコンというものがありませんでした。
家を開け放し、自然の風を取り入れ、良くても扇風機、なければ団扇で過ごしていました。
 寝ていても 団扇の動く 親心
冷蔵庫の中身は生鮮食品、肉や魚だけで、冷凍食品もありませんでした。
野菜や果物は流水で冷やして、それでも冷たいと感じて食べていました。
以来、どんどん電化が進み、二酸化炭素を排出して温暖化を招きました。
クーラーのある部屋から外に出ると余計に暑く感じるのと同じように、昔我慢できた暑さもどんどん我慢できなくなります。
実際にエアコンの使用により外は暑くなっているのですから、悪循環というか、雪だるま式というか、暑さは倍増するばかりです。
山形の夏の食べ物と言えば「みずかげまま」があります。
主に昼のメニューでしたが、朝の残りご飯に水をかけて、漬物でお茶漬けのようにして食べるという代物です。
京都で言えば「ぶぶづけ」なのでしょうが、山形の夏はただの水です。
食欲のない暑さの中でも、ササッと食べられ、漬物で塩分も摂れるので理にかなっていたかもしれません。

常夏のタイやカンボジアの田舎に行くと、昼寝をしている人が多く、訪れた日本人の中には「昼寝などしているから貧しいんだ」と揶揄する人もいましたが、それは実態を知らないからでした。
暑い日中は寝ている人も、朝晩は働いています。
カンボジアの電気のない村のお寺に泊まった夜、「説法に行くから行かないか」と言うので、住職についていきました。
夜なので慌てて懐中電灯を持ち出しましたが、外に出ると月が煌々と大地を照らしています。
木の影が黒々と映えるほどに明るいのでした。
「夜は暗い」と思い込んでいた日本人には驚きの光景でした。
懐中電灯を消して、田んぼの畦道を何の苦もなく歩いて行くと、遠くから賑やかな音楽が聞こえてきます。
近づいてみると、大勢の村人、老若男女がラジカセの音楽に合わせて賑やかに歌ったり踊ったりしています。
祭りか何かかと見ると、雨季の間に壊れた道を直しているんだとのこと。
月のうちの半分は、つまり満月の前後は、こうして村人みんなで道普請をするのだと。
それがまるで祭りのように、働く者がいれば踊るのもいて、子どもが楽しそうにはしゃいでいるのを目を細めて眺める老人。
みんなが集まるそのものが楽しみなのだと理解されました。
その村人の多くが、昼に寝ていた人たちでした。
決して怠惰なのではありませんでした。
物を持たないから貧しいのだろうと思ったことも違っていました。
誰一人取り残さず、みんなで集まることに意味を感じ、働く人も踊る人も眺める人も、それぞれに役割を果たしていたのだと思います。
その心は決して貧しいとは言えないでしょう。
近くの町まで電気は来ています。
「この村に電気は必要ないですか」と尋ねると村人は、「まだ要らない」と答えました。
そこにも豊かさを感じました。

我々は、何を求め何を失って来たのか、と考えます。
便利な道具は一旦手にしてしまうと、なくてはならないものになります。
便利なものは次々と開発されて留まることを知りません。
便利なものを手にする幸せ感は手にした一瞬だけで、次の瞬間から色褪せていきます。当たり前になるからです。
なので、一瞬の幸せを求めて限りない物欲に駆られるのです。
我々がなくしてはならなかったのは、「まだ要らない」という哲学だったのではないか、と思います。
かといって、今さらまだ要らないはあり得ないでしょう。
きっと、本当に痛い目に遭わない限り、もっと欲しい煩悩は変えられないのだと、残念ながら思います。
なので、戦争も核戦争もいいのかもしれません。
やるだけやって気がつけばそれでもいいし、気がついた時には遅いということでも仕方がありません。
21世紀に入った時に、もう人類は叡智を結集して平和で穏やかな時代へと進んで行くんだと勝手に思い込んでいましたが、とんでもなかったですね。
智慧も進歩もないんだと呆れています。なんかもう。
今週も暴言を吐いてしましました。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。