なあむ

やどかり和尚の考えたこと

サンデーサンライズ455 世にそしられざる人なし

2024年02月11日 05時00分00秒 | サンデーサンライズ
三ちゃんのサンデーサンライズ。第455回。令和6年2月11日、日曜日。

本当に雪の少ない冬です。
元々雪の降らないところはいつもこんなに楽に過ごしているのでしょうね。
うらやましいとも思いますが、何か罪悪感のようなものを感じてしまうのは雪国人の性でしょうか。
大変さとそれをやり遂げた時の達成感、納得感とは比例するものかもしれません。
ここまでくると、もうこれ以上は降らないのだと思います。
雪を楽しみにしていた人、雪を仕事としていた人には残念な冬になりました。
能登半島の被災者にとっては助かったのでしょうから、それを喜んでいきましょう。

15日は釈尊涅槃会です。
前日に涅槃団子を丸め、お供えして法要を営みます。
その当時のインドの平均寿命は50歳にも満たなかったでしょうから、80歳で亡くなられたお釈迦様はずいぶんな高齢だったと言えます。
高齢というだけで人の目を引き尊敬されたものと思われます。
しかも、最期まで説法されたわけですから、その教えを乞う人々が常に周りを囲繞していたことでしょう。
一方、近親憎悪と言うのか、近くにいた人からは、妬み、嫉み、やっかみがあり、批判もされたようです。
お釈迦様でさえそうなのですから、凡夫の我々が誰かに批判されるのは当然のことです。
やっかみなどではなく、自分には落ち度も過ちも恥ずかしいこともあるのですから、誰かに何かを言われないという人はいないでしょう。

人は黙して坐するをそしり、言葉多きをそしり、また言葉少なきをそしる。世にそしられざる人なし (『法句経』)

誰かに批判されることを怖れて黙ってもしゃべっても結局は批判されるのです。
なので、好きなように行動すればいいのです。
私は私の命を生きているので、誰かのために生きているわけではありません。
誤解を招いてはいけないのでもう少し言葉を加えると、誰かのために生きようとする自分は私の意志でそう生きているのです。自分の命を自分で使っているのです。
ですから、自分に責任を持てはいいだけのことで、誰かの目を気にして生きることではありません。
自分の命を誰かが生きてくれるわけでもないし、この命を誰かに使われることもありません。
もちろん、拘束されて強制労働をさせられている、あるいは虐待されているような犯罪的なケースは別です。
千差万別、百人百様の命ですから、自分はたった一つのたった一度の命、ここに生きたという意味は自分で自覚していかなければなりません。
でも不思議ですね、その生き方が2600年ほどの時代を超えて今も生き生きと教えを示しているのですから。
お釈迦様を慕い、お釈迦様のように生きたいとあこがれるのが仏教徒です。

今、「一日受戒会ー生前戒名授与式ー」を構想しています。
いわゆる、正式な仏教徒になる儀式、キリスト教で言えば洗礼式のようなものです。
参加者には血脈と戒名を授けます。
5日間とか3日間で行う大がかりな授戒会はプログラムがちゃんとあるのですが、お金をかけずに一日でできるようにしたい。
その思いは以前からあり資料も集めていましたが、実際には動いてきませんでした。個人やご夫婦で受戒したケースは何件かありましたが。
先日、地元のオヤジたちの何でもない飲み会で、そんな話になり少し構想を話してみると、「それはいい!是非やってくれ!」「そういうことをやってくれることがうれしい!」「大勢集まるんじゃないか。オレは母ちゃんと二人で行く!」とオヤジたちに激しく同意され、ビックリするくらいでした。
年齢もあるのかもしれません、人生の閉じ方に関心が向いているというか、何か命の落ち着き処を求めているようなことなのかもしれません。
そんなに同意されるならと、構想を形にすべく資料作りを始めてみると、一日でだいたいプログラムや予算案、内容が出来上がってしまいました。
日程も決め案内文書を印刷するばかりまで整いましたが、考えてみれば今年の秋は寺の団体旅行を企画しているし、そこに大きな行事を挿入するとどちらにも影響が出るかもしれません。少し時間をおいて、来年の行事にしようかと今は考えています。
それにしても、酒飲みオヤジたちも侮れないと見直しました。ちゃんとものを考えているし、いいと思うことには素直に賛成してくれます。ただの酒飲みではないかもしれません。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。