三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第353回。2月20日、日曜日。
先週は三日ほど寝ました。
風邪かなと思ったのですが、熱はなく、咳も鼻水もありません。ただ、身体がだるく、節々がこわばり、眠い。
ほとんど外部との接触はないので感染症でもないでしょう。
下痢があることから、孫の胃腸炎がうつったのかなと思います。
横になるだけでなくほとんど眠っていて、よくこれだけ眠れるものだと感心しました。
今はもう全快しています。
2月15日、涅槃会を勤めました。
前日、梅花講の皆さんでいつものようにだんごを丸めていただき、カラフルな「涅槃だんご」がたくさん出来上がりました。
当日はお経と御詠歌奉詠、お話の後、例年であれば盛大にだんごをまくのですが、感染予防を考え去年同様今年も袋に詰めてお渡しする方法にとどめました。
涅槃会はこの辺りでは「だんごまぎ」と称されるほど、盛大にまいてみんなで大騒ぎしながら拾う、という行持なので、まかないのは静かで寂しい涅槃会です。
そんなに拾ってどうするんだろう、と疑問に思うほど、まけばまいただけ、みなさん必死に拾います。粉にまみれるのもお構いなく、「こっちゃまげー」と両手を広げ、さらには腰に風呂敷を巻いて広げて受け止めようとします。
隣を見ると、近くに落ちただんごをいちいち拾わずにとにかくひざ元にかき集め、後から袋に詰めようという作戦です。
たくさん拾っただんごは親戚や友人に分けようというのですから、それはそれで意味のあることなのですが、それ以前のまく、ひろう、という行為は、要不要を超えた動物的本能のような欲求を満たす行為なのかもしれません。
雪国の冬は、そんなこともストレス解消として活用してきたものなのでしょう。
節分の豆まきとも通ずるイベントの意味合いを感じます。
冬期オリンピックも今日が最終日のようです。
嬉しそうに喜んでいる姿には素直に「よかったね」と共感を覚えます。
カーリングは今日、なんと決勝を迎えます。準決勝はしびれました。
前々回大会からか、カーリングが気になり、その競技の面白さにはまっています。
1試合2~3時間もかかるので、テレビで観るのもとても大変なのですが、見始めると目が離せなくなり、ついつい観てしまうということになります。一昨日も、私にとっては夜中ですが、観てしましました。
4人一組のチーム戦で、相手チームと交互に一人2投ずつストーンを投げ合い、最後にどちらのチームが中心に一番近い石を残したかを数えて1エンド。それを10エンド行うという試合です。
点数になるのは最後に残った石ですから、最後の4人目に投げる人の石が重要なのですが、それまでにそのステージをどのように組み立てていくかというセットアップの1投1投が、一つも無駄にできない重要な意味を持つということが、長く観ていると分かってきます。
このカーリングを観ていて、人生のようだと感じます。
舞台は、長四角い氷の上。
人生の目標に向かって、夢や計画をトライしていく。
しかし、一見平らかのように見える行路が、実はよく見ると氷の粒々で覆われていて、この粒によって思わぬ方向に曲がったり、届かなかったり行きすぎたりする。しかも、その状態は気温によっても刻々と変わってくる。
さらに、この舞台には、同じように夢を実現しようとトライしているグループもいる。
相手には相手の都合があり、計画がぶつかったり、お互いに存在が障害になったりする。
いわば思い通りにならないのが社会というものだ。
ただ、自分には仲間がいる。一人で戦っているのではないのだ。
声をかけ合い、相談し合い、状況を読み、判断し、力を合わせて目標に近づけていくことができる。
そのためには、常日頃からコミュニケーションをとり、理解し、信頼していなければならない。
それさえできていれば、たとえ失敗したとしても、励まし合い、支え合って立ち直ることができる。
ミスも成功も分かち合い、悲しみも喜びも分け合っていくことができる。
大事なのは共に生きているということ。それを知っていること。
その上で、自分の役割に自信を持ち、一投一投に心をこめていく。
ゲームの終了はコンシード。自ら負けを認め相手を祝福する。将棋の「投了」に近いと言われるゲームオーバーの仕方だ。
人生にも審判はいない。最期を自分で認めていく以外にない。
周囲に敬意を払い、感謝で立ち去るのがいい。
そんな姿を、カーリングの試合に重ね合わせて観ていました。
人生は曲がりながら真っすぐ。カーリングだよ人生は。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。
先週は三日ほど寝ました。
風邪かなと思ったのですが、熱はなく、咳も鼻水もありません。ただ、身体がだるく、節々がこわばり、眠い。
ほとんど外部との接触はないので感染症でもないでしょう。
下痢があることから、孫の胃腸炎がうつったのかなと思います。
横になるだけでなくほとんど眠っていて、よくこれだけ眠れるものだと感心しました。
今はもう全快しています。
2月15日、涅槃会を勤めました。
前日、梅花講の皆さんでいつものようにだんごを丸めていただき、カラフルな「涅槃だんご」がたくさん出来上がりました。
当日はお経と御詠歌奉詠、お話の後、例年であれば盛大にだんごをまくのですが、感染予防を考え去年同様今年も袋に詰めてお渡しする方法にとどめました。
涅槃会はこの辺りでは「だんごまぎ」と称されるほど、盛大にまいてみんなで大騒ぎしながら拾う、という行持なので、まかないのは静かで寂しい涅槃会です。
そんなに拾ってどうするんだろう、と疑問に思うほど、まけばまいただけ、みなさん必死に拾います。粉にまみれるのもお構いなく、「こっちゃまげー」と両手を広げ、さらには腰に風呂敷を巻いて広げて受け止めようとします。
隣を見ると、近くに落ちただんごをいちいち拾わずにとにかくひざ元にかき集め、後から袋に詰めようという作戦です。
たくさん拾っただんごは親戚や友人に分けようというのですから、それはそれで意味のあることなのですが、それ以前のまく、ひろう、という行為は、要不要を超えた動物的本能のような欲求を満たす行為なのかもしれません。
雪国の冬は、そんなこともストレス解消として活用してきたものなのでしょう。
節分の豆まきとも通ずるイベントの意味合いを感じます。
冬期オリンピックも今日が最終日のようです。
嬉しそうに喜んでいる姿には素直に「よかったね」と共感を覚えます。
カーリングは今日、なんと決勝を迎えます。準決勝はしびれました。
前々回大会からか、カーリングが気になり、その競技の面白さにはまっています。
1試合2~3時間もかかるので、テレビで観るのもとても大変なのですが、見始めると目が離せなくなり、ついつい観てしまうということになります。一昨日も、私にとっては夜中ですが、観てしましました。
4人一組のチーム戦で、相手チームと交互に一人2投ずつストーンを投げ合い、最後にどちらのチームが中心に一番近い石を残したかを数えて1エンド。それを10エンド行うという試合です。
点数になるのは最後に残った石ですから、最後の4人目に投げる人の石が重要なのですが、それまでにそのステージをどのように組み立てていくかというセットアップの1投1投が、一つも無駄にできない重要な意味を持つということが、長く観ていると分かってきます。
このカーリングを観ていて、人生のようだと感じます。
舞台は、長四角い氷の上。
人生の目標に向かって、夢や計画をトライしていく。
しかし、一見平らかのように見える行路が、実はよく見ると氷の粒々で覆われていて、この粒によって思わぬ方向に曲がったり、届かなかったり行きすぎたりする。しかも、その状態は気温によっても刻々と変わってくる。
さらに、この舞台には、同じように夢を実現しようとトライしているグループもいる。
相手には相手の都合があり、計画がぶつかったり、お互いに存在が障害になったりする。
いわば思い通りにならないのが社会というものだ。
ただ、自分には仲間がいる。一人で戦っているのではないのだ。
声をかけ合い、相談し合い、状況を読み、判断し、力を合わせて目標に近づけていくことができる。
そのためには、常日頃からコミュニケーションをとり、理解し、信頼していなければならない。
それさえできていれば、たとえ失敗したとしても、励まし合い、支え合って立ち直ることができる。
ミスも成功も分かち合い、悲しみも喜びも分け合っていくことができる。
大事なのは共に生きているということ。それを知っていること。
その上で、自分の役割に自信を持ち、一投一投に心をこめていく。
ゲームの終了はコンシード。自ら負けを認め相手を祝福する。将棋の「投了」に近いと言われるゲームオーバーの仕方だ。
人生にも審判はいない。最期を自分で認めていく以外にない。
周囲に敬意を払い、感謝で立ち去るのがいい。
そんな姿を、カーリングの試合に重ね合わせて観ていました。
人生は曲がりながら真っすぐ。カーリングだよ人生は。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。
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