なあむ

やどかり和尚の考えたこと

三ちゃんのサンデーサンサンラジオ146

2018年02月11日 04時59分27秒 | サンサンラジオ
♪゜・*:.。. .。.:*・♪
三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!

今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。

2月11日、日曜日。

北陸の豪雪は各地に大きな被害をもたらしているようです。
この地方の雪は湿った雪で重いので内陸と違って大変だと思います。
福井の永平寺では「全山作務」と言って、修行僧は通常の行事をほとんど中止して全員で「雪作務」をしているとのこと。
昭和56年の豪雪の時は、長い階段廊下をスノーシューターにして除雪しましたが、今回はどうでしょうか。

今日は11日、来月の今日で震災から丸7年となります。
震災後間もなくから「震災を忘れない」というフレーズが使われました。
ついつい忘れてしまう人と、忘れたくても忘れられない人がいて、その隔たりがまた痛いと感じたものでした。
忘れるとか忘れられないとかは、自分の意志とは違うところで起こる現象です。
認知症の人が自分の意志で物忘れしているわけでもありませんし、忘れたくても時折思い出しては腹を立てたりすることもあります。
親の命日さえ時間が経てば忘れてしまうことがありますから、自分から遠い出来事など忘れてしまうのが自然だと言えます。
「震災を忘れない」という言葉自体「忘れてしまうけど忘れてはいけない」という意味を含んでいます。
ではどうすればいいのか。
忘れてはいけないことは、心に記憶するのではなく、文字として記録しておくのが最もいい方法だと思います。
我が家の仏壇の過去帳には、我が家の先祖様はもちろんのこと、母親の両親、私の妻の両親の他、これまでお世話になった忘れてはいけない方々の戒名がその月命日の欄に書き込んであります。
阪神淡路大震災、東日本大震災発生の日も書き込んであり、毎日掌を合わせるときに、過去帳をめくりああ今日はそうだったね、と思い出しているのです。
これまでお世話になった人々、親も含めて、すべてを記憶しておくのは不可能です。だから文字にして記録しておく必要があると思うのです。
文字にしない、すべきでないことは全て忘れてしまってもいいことだと思います。
記憶は時に邪魔になり、災いの原因にもなります。

江戸時代の禅僧、盤珪禅師は、こんなことを言っています。

 嫁が憎いの、姑が憎いのと、よくいわっしゃるが、嫁は憎いものではないぞ、姑も憎いものではないぞ。
 嫁があの時ああいうた、この時こんなきついことをいわしゃった、
 あの時あんな意地の悪いことをしなさったという、記憶が憎いのじゃ。
 記憶さえ捨ててしまえば、嫁は憎いものではないぞ。姑も憎うはないぞ。

その人が憎いのではなく、記憶そのものが憎いのだ、だから「記憶を捨てよ」と。
皆さんにはありませんか。ふっと思い出しては腹が立つことが。私にはあります。
きっかけはいろいろですが、ふっと頭に浮かんできては、そのシーンが鮮やかによみがえり、メラメラと腹が立ってくることが。
たいがいは、こちらに非がなく相手に非があると思うから怒りになるのです。そして、それを言い返せなかった自分に腹を立てているのです。
忘れてしまえば楽なのに、時折思い出しては苦しむのです。苦しむのは相手ではなく自分です。しかも変えられない過去に対して。何の意味もありません。
だから、「忘れろ」ではなく「捨てろ」と盤珪禅師は言うのです。忘れられなくても「捨てる」のは自分の意思です。
記憶を全て捨て去り”ゼロ”になればこんな楽なことはないですね。
捨てましょう。大事なことだけは記録に残しておきましょう。


今週はここまで。また来週お立ち寄りください。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿