クリスマスというものは、子どもと若いカップル以外の者にどんな意味があるのだろう。
クリスチャンでもない大人にとって、それほど楽しいものだとは思えない。
老人施設でクリスマス・パーティをどうしてもやらなければならないのか。
老人は、楽しそうな演技を強いられてはいないか。
ようするに、それは「商戦」であり、「経済効果」でしかないだろう。
クリスチャンでもない日本人がこの日教会に詣でることはほとんどないだろう。
そんなことはもうどうでもいいのか。
信仰深いクリスチャンが、このバカ騒ぎを喜んでいるのだろうか。
つまりは、信仰の対象は経済でありお金でしょう。
そのために利用されるクリスマスっていったい、と思う。
正月はとりあえずは神社に参詣し、お盆はとりあえずはお墓やお寺のお参りをする人はまだ多くいると思う。
宗教儀礼の形はとりあえず維持されているだろう。
それに比べクリスマスは。
これは文化なのか。踊らされているのか。誰に。
ハロウィンなどというものもここ最近経済信仰儀礼として浸透してきているようだが、いいのかそれで。
誰のためにやらされているのだ。
それよりも、節句だとか、冬至カボチャなどを大切にした方がいいのではないか。
菖蒲湯だとか、栗名月だとか、山の神祭礼だとか、季節毎の行事があっただろう。
経済ではないものは失われて、意味も分からず経済信仰儀礼だけが幅をきかせるというのは、国民のアイデンティティを喪失させることではないのか。
先日岩手で待ち合わせをしたショッピングモールで車に乗っていると、側にあった宝くじ売り場が目に入った。
見るともなしに見ていると、時節柄か、ひっきりなしに客が吸い寄せられていた。誘蛾灯か。
それにしてもくじを買い求める人がこんなにもいるのか。こんな田舎にもと驚いた。
生涯に一度だけ、仲間に誘われてついでに買ってもらったことはあるが、自分で買ったことは一度もない。
「宝くじに当たったようなものだ」という喩えになるぐらい当たらないものだとは誰もが分かっているのに何故こんなにも買うのか。
買わなけりゃ当たらない。もっともだ。
しかし、ほとんど当たらないと思いながら何故買うのか。
夢を買う。
もし当たったら、ああしてこうして、という想像の楽しみを買うということか。
でも、もし本当に当たってしまったら、と思う。
苦労もあるのではないか。
何に使おうか悩む。誰にあげようか考える。その使い道で意見が合わずケンカする。
家を建てて引っ越し、仕事をするのもバカバカしくなってくじ三昧の日暮らしをする。
そんな大人の姿を見て育つ子どもは幸せになれるのだろうか。
子育てとしてそれはいいことなのか。
つまりは、長い目で見てそれは幸せなことなのか。
刹那の夢のために、子孫まで幸せに暮らせる大事なことを捨て去られてしまうことにはならないのか。
くじにも災難にも当たらずに生きた方が幸せがような気がする。
元々富くじは、神社仏閣の再建を目的として始まったものらしい。
被災地復興目的で発売されたこともあったようだ。それならばと思わないではないが、誘蛾灯にはそれらしい言葉は見当たらない。
ま、買わないものが何を言っても遠吠え、ごまめの歯ぎしりにしかならないので、失笑もの。
クリスマスや宝くじという光景をみて、なんだかなあと思ったこの頃。
冷めた年頃になったなあ。
クリスチャンでもない大人にとって、それほど楽しいものだとは思えない。
老人施設でクリスマス・パーティをどうしてもやらなければならないのか。
老人は、楽しそうな演技を強いられてはいないか。
ようするに、それは「商戦」であり、「経済効果」でしかないだろう。
クリスチャンでもない日本人がこの日教会に詣でることはほとんどないだろう。
そんなことはもうどうでもいいのか。
信仰深いクリスチャンが、このバカ騒ぎを喜んでいるのだろうか。
つまりは、信仰の対象は経済でありお金でしょう。
そのために利用されるクリスマスっていったい、と思う。
正月はとりあえずは神社に参詣し、お盆はとりあえずはお墓やお寺のお参りをする人はまだ多くいると思う。
宗教儀礼の形はとりあえず維持されているだろう。
それに比べクリスマスは。
これは文化なのか。踊らされているのか。誰に。
ハロウィンなどというものもここ最近経済信仰儀礼として浸透してきているようだが、いいのかそれで。
誰のためにやらされているのだ。
それよりも、節句だとか、冬至カボチャなどを大切にした方がいいのではないか。
菖蒲湯だとか、栗名月だとか、山の神祭礼だとか、季節毎の行事があっただろう。
経済ではないものは失われて、意味も分からず経済信仰儀礼だけが幅をきかせるというのは、国民のアイデンティティを喪失させることではないのか。
先日岩手で待ち合わせをしたショッピングモールで車に乗っていると、側にあった宝くじ売り場が目に入った。
見るともなしに見ていると、時節柄か、ひっきりなしに客が吸い寄せられていた。誘蛾灯か。
それにしてもくじを買い求める人がこんなにもいるのか。こんな田舎にもと驚いた。
生涯に一度だけ、仲間に誘われてついでに買ってもらったことはあるが、自分で買ったことは一度もない。
「宝くじに当たったようなものだ」という喩えになるぐらい当たらないものだとは誰もが分かっているのに何故こんなにも買うのか。
買わなけりゃ当たらない。もっともだ。
しかし、ほとんど当たらないと思いながら何故買うのか。
夢を買う。
もし当たったら、ああしてこうして、という想像の楽しみを買うということか。
でも、もし本当に当たってしまったら、と思う。
苦労もあるのではないか。
何に使おうか悩む。誰にあげようか考える。その使い道で意見が合わずケンカする。
家を建てて引っ越し、仕事をするのもバカバカしくなってくじ三昧の日暮らしをする。
そんな大人の姿を見て育つ子どもは幸せになれるのだろうか。
子育てとしてそれはいいことなのか。
つまりは、長い目で見てそれは幸せなことなのか。
刹那の夢のために、子孫まで幸せに暮らせる大事なことを捨て去られてしまうことにはならないのか。
くじにも災難にも当たらずに生きた方が幸せがような気がする。
元々富くじは、神社仏閣の再建を目的として始まったものらしい。
被災地復興目的で発売されたこともあったようだ。それならばと思わないではないが、誘蛾灯にはそれらしい言葉は見当たらない。
ま、買わないものが何を言っても遠吠え、ごまめの歯ぎしりにしかならないので、失笑もの。
クリスマスや宝くじという光景をみて、なんだかなあと思ったこの頃。
冷めた年頃になったなあ。
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