曹洞宗は今年度、昨年度に引き続き布施行を布教方針の柱にあげています。
一般的に考えれば、布施とは施しのことで、与えることの意味になりますが、道元禅師は「布施とは不貪なり」と教示しています。貪らないことが布施だという教えです。
だから、貪りの心がなければ、たとえ父母妻子に施すのも、自分のために使うのも布施になると展開をしているのです。花が咲くのも鳥が鳴くのも布施だと。
今この国で、最も苦しい状況に置かれているのは原発事故の被災者の方でしょう。
もちろん、苦しみは個人個人の問題であり、誰かと比べて1番2番と優劣をつける事柄ではないことは承知です。
しかし、突然襲ってきた地震、津波により家を失い家族を失い、原発事故で故郷を追われ、仕事を失いコミュニティが破壊され、更にその上に、事故の補償の問題で金銭的に差別感を生み、疑心暗鬼になり、親戚、友人関係まで精神的にバラバラにされてしまっている状況は、これまでにこの国の国民が経験したことのない数重苦と言わなければならないでしょう。
事故前まで、それぞれの生活の違いがありながら、お互い認め合って穏やかな社会を形成していたところへ、襲いかかってきた金銭による差別感、不公平感は、人工の津波のような被害ではないでしょうか。
金銭的な問題は、簡単に人の心と人間関係を変えてしまう大きな力をもっていると思います。恐ろしい力です。
人間が生きていくのにお金は必要です。しかし、人間は金銭によってのみ幸せを享受できるものではありません。
むしろ、金銭をはじめとする欲は、最も簡単に人間を破壊し、精神的に貧しくしてしまう毒なのです。
仏教が「三毒(貪欲、瞋恚、愚痴)」と示す、人間にとって害ある煩悩の筆頭に貪欲を挙げているのはそれ故でしょう。
そういう意味で、福島の原発被災の方々とその周辺の方々の精神的な苦しみは、人間の根本の煩悩を煽ってしまったところにあるのではないかと思っています。
その苦しみの中にいる人々に、仏教は何が説けるのか。
法ー仏の教えが、苦しむ人々を救う薬なのだとすれば、福島の方々へ届ける薬は何か。
何を伝えればいいのか。それを考えます。
簡単なことではないことは分かっています。
ですが、仮にも僧侶であるならば、ギリギリと頭を使い、歯ぎしりをしながら考える産みの苦しみを味わう責務があるのではないか。
誰も経験したことのない苦しみにも、仏教は全く役に立たないはずはない、と思っています。